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文化

ナワビ 矢麻
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アフリカ横断一万粁(キロ)
―関根吉郎とアフリカ・マヤ資料コレクション―

ナワビ 矢麻/早稲田大学會津八一記念博物館助手

 早稲田大学會津八一記念博物館では秋季企画展として、2017年10月12日(木)から11月18日(土)の期間、当館1階企画展示室にて「アフリカ横断一万粁(キロ)―関根吉郎とアフリカ・マヤ資料コレクション―」展を開催いたします。

 本展は、早稲田大学理工学部化学系の教員、また、早稲田大学山岳部の監督、探検部の初代部長を歴任された故・関根吉郎(せきね・よしろう)名誉教授が収集し、退職時に大学に寄贈した「関根コレクション」のなかから、アフリカの民族資料やマヤ・パレンケ遺跡のタブレット拓本資料を中心に、貴重な優品を公開するものです。

関根吉郎教授と民族資料コレクション

(写真1)関根吉郎名誉教授

 関根吉郎は1915(大正4年)年東京に生まれ、1941年早稲田大学の理工学部応用化学科を卒業、その後早稲田大学理工学部で教鞭を執りました(写真1)。早稲田大学で応用化学科とは異なる理学部系の化学科の設立に尽力し、化学分野での多数の業績を残しています。同時に関根は、戦後日本において海外渡航が自由化される以前、自らの研究の傍らたびたび遠征隊を組織し、調査活動を行いました。

 関根は登山家としても有名であり、1953年1月26日に南米最高峰のアコンカグアを日本人として初めて登頂したことでも知られています。しかし関根の調査・遠征活動を代表するものは、何と言ってもアフリカ横断遠征、そして中米遠征でしょう。遠征の過程で収集した民族資料や美術資料は200点以上にのぼり、関根コレクションとして會津八一記念博物館に所蔵されています。

アフリカ横断一万粁(キロ)

(写真2)盾〈マーサイ〉

(写真3)仮面〈バントゥー系民族か〉

 1958年1月、関根率いる9名の遠征隊がアフリカ東海岸の港湾都市・モンバサ(ケニア)に上陸しました。1953年の南米・アコンカグア登山へ向かう際にモンバサに寄港した関根は、「いつかこの大陸を横断しよう」と語っていたそうですが、5年後にその念願が達せられたのです。この遠征の目的は大きく2つありました。一つはアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロの登頂、もう一つは当時「暗黒大陸」とされていたアフリカに暮らす民族の生活や自然について、日本にその姿を紹介することでした。

 モンバサを出発した関根遠征隊は、キリマンジャロ登頂を達成すると、2台の自動車で本格的に民族調査を開始します。この遠征には、のちに理工学部長、日本建築学会会長を務めた吉阪隆正も、マネージャーとして参加していました。遠征隊はモンバサを始点とし、英領ケニアからウガンダ、ルアンダ・ウルンディ、ベルギー領コンゴを通過し、レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)まで、赤道アフリカを文字通り横断、走破したのです。3ヶ月に及ぶ期間、マーサイ(ケニア・マサイランド)の盾(写真2)や装飾品、キクユ(ケニア・リフトバレー)のサイザル麻製の篭、バントゥー系民族の仮面(写真3)やニャンガ(コンゴ・キブ湖周辺)の槍などを収集し、各民族の住居や生活の様子を記録しました。ケニアでは民族大舞踊大会を訪れ、サバンナでのサファリではカバやキリン、ライオンなどの野生動物を目前にするなど、赤道アフリカの各地に立ち寄りながら、調査遠征は続けられます。

 特にコンゴ・イトゥリの森では、森に暮らすムブティ(ピグミー)の村に5日間滞在し、楽器や生活道具など多くの資料を収集しました(写真4)。1958年当時行われていた森の中での網と弓矢を使った伝統的な狩猟の様子や、彼らが身体に唯一身につけている褌の作り方などについて、スケッチや写真での記録も行われています。ムブティ(ピグミー)と聞けば毒矢を使った狩猟を想像されるかも知れませんが、その情報は西洋の探検家からもたらされたイメージに過ぎず、実際は森の中に網を張った追い込み猟が行われていたのです。ムブティの使用していた長さ80cmに満たない小さな弓矢は、追い詰めた獲物にとどめを刺す際に使われていました。

(写真4)楽器〈ムブティ(ピグミー)〉

 収集された民族資料は、1958年当時の民族の思想や生活を彩る豊かな物質文化を反映しており、地域や民族ごとに多種多様な特徴を示す貴重な資料群と言えるでしょう。

 また、調査遠征の様子は写真のみならず映像として記録され、当時の日本にアフリカの自然や風俗を紹介するドキュメンタリー映画(『赤道直下一万粁 アフリカ横断』:日映新社)として公開されました。アフリカでの調査遠征の様子を収めた貴重な映像資料も、企画展会場にて上映いたします。

調査研究活動の広がり―マヤ・パレンケ遺跡

(写真5)太陽の神殿タブレット拓本〈メキシコ・パレンケ遺跡〉

 1961年には、関根により中米遠征隊が組織され、メキシコ・マヤの遺跡の調査・遠征が行われました。遠征隊員は7名で、その中には建築史や美術史を早稲田大学で学ぶ大学院生も含まれていました。クィクィルコ、テオティワカン、チチェン・イツァ遺跡などを訪れ、パレンケ遺跡においては神殿タブレットの拓本が採取されています。パレンケ遺跡の拓本は全部で8点ありますが、本企画展では特に十字グループと呼ばれる「十字神殿」「葉十字神殿」「太陽の神殿」(写真5)の3つの神殿のタブレットを展示いたします。

 パレンケ遺跡はメキシコ・チアパス州に所在するマヤの古典期を代表する都市遺跡で、世界遺産にも登録されています。十字グループの神殿はいずれもパカル王の息子、キニチ・カン・バラム2世が建造したもので、7世紀後半に相次いで建造されました。この2代の王の治世にパレンケは最盛期を迎えます。タブレットには、キニチ・カン・バラム2世の即位を巡るモチーフが表され、周囲にはマヤ文字が配されています。

 1952年にメキシコ考古学者アルベルト・ルスによりパカル王の石棺が発掘され、パレンケ遺跡は世界中の注目を集めます。ルスの発掘は1958年に終了し、関根はその直後にパレンケに入り拓本の採取に成功しています。この数年後には、遺跡保存の観点から拓本の採取が禁じられたため、現在日本で見ることができる非常に貴重な拓本資料です。

関根先生の意志を継いで

 関根が調査遠征活動の一線を退いた後も、早稲田大学山岳部、そして探検部の活動は続いていきます。現在に至るまで、早稲田大学山岳部・探検部は関根の意志を継いで多方面での活躍を続けています。また関根は、早稲田大学の海外学術調査をいち早く計画していた人物でもありました。特にマヤでの調査では、継続的な調査の第一歩目として、その活動の拠点を設けるべく調査・遠征を位置づけていました。残念ながら関根自身による海外での継続的な調査は叶いませんでしたが、その意思は現在の早稲田大学の研究者や学生にも受け継がれています。

 関根が精力的な調査遠征活動の中で収集した、現在では入手困難な数多くの民族・考古資料、美術品は、関根が退職する際に早稲田大学へ寄贈され、現在に至ります。1986年、関根の退職の際に、寄贈を記念して「マヤ美術拓本とピグミー資料展」が開催されましたが、それ以降は公開されることなく30年以上の歳月が流れました。

 近年の継続的な資料調査により、「関根コレクション」の成立経緯や遠征の全貌が明らかになりつつあり、いままで過小評価されてきたアフリカ、中米への遠征やコレクションの意義の再評価を目的とし、企画展示として公開します。関根の収集以来、初めてのお披露目となる資料も数多く展示いたします。アフリカ民族資料やパレンケ遺跡のタブレット拓本はもちろん、世界へ向けた関根の眼差しやその人柄、コレクションの背景となる心躍る探検遠征の様子もお楽しみいただければ幸いです。

 皆様のご来館を心よりお待ちしております。

「アフリカ横断一万粁(キロ) ―関根吉郎とアフリカ・マヤ資料コレクション―」展
会期
2017年10月12日(木)~11月18日(土)
※日曜・祝日は休館〈10月15日(日)、11月5日(日)は開館〉
開館時間
10:00~17:00 ※金曜日は18:00まで開館
(入館はそれぞれ閉館時間の30分前まで)
会場
早稲田大学會津八一記念博物館1階 企画展示室
主催
早稲田大学會津八一記念博物館
共催
早稲田大学人間科学学術院
料金
無料

ナワビ 矢麻(なわび・やま)/早稲田大学會津八一記念博物館助手

1988年生まれ。2015年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程入学、2017年4月から現職。
専門はシルクロード考古学。