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「早稲田の通信講義録とその時代 1886-1956」展に寄せて

廣木 尚/早稲田大学大学史資料センター助手

写真①本展示会のポスター

 早稲田大学大学史資料センターでは、2016年度春季企画展「早稲田の通信講義録とその時代 1886-1956」を開催します。

 今年は、早稲田大学の前身である東京専門学校が通信講義録の発行をはじめてからちょうど130年目にあたります。といっても、早稲田の通信講義録と聞いて、何のことか思いあたるという人はほとんどいないかもしれません。

 19世紀の終わり、近代的な教育制度が整備され、日本にも学歴がものをいう時代が訪れます。しかし、その時代は経済的に恵まれないほとんどの人々にとって、幼少にして夢を絶たれる理不尽な時代でもありました。上京や進学がかなわないそのような人々にとって、勉強を続けるための数少ない選択肢が、講義録による通信教育を受講することだったのです。

 他の多くの通信講義録事業が短命に終わるなか、早稲田の通信講義録は実に70年もの長期にわたって発行を続け、1956(昭和31)年に募集を停止するまで200万人を超える人々に購読されました。通信講義録は、まさにキャンパスの外に広がった“もう一つの早稲田”であり、逆境のなか独学に励んだ講義録の受講者たちは、在校生以上に「在野の精神」を体現した存在だったといっても過言ではないでしょう。

 ここでは、その“もう一つの早稲田”のいとなみを、展示内容に即して紹介したいと思います。

1.教ゆるにも亦た術多かり――通信講義録のはじまり

写真②政学講義会の講義録

 東京専門学校、今日の早稲田大学が通信講義録事業に乗りだしたのは、開校から4年後の1886(明治19)年のことです。憲法発布と国会開設を数年後にひかえたこの時期、西欧を模範とする法律や制度が続々と導入され、日本の国家と社会は急速に形を変えていきました。新しい時代を生きるためには新しい知識が必要です。そのニーズに応えるため、たくさんの講義録が発行されましたが、早稲田の通信講義録もその一つでした。

 通信講義録の発案者は東京専門学校創立の中心メンバーであり、後年、第三代総長をつとめる高田早苗(1860~1938)です。講義録は、最初、政学講義会から発行されました【写真②】。政学講義会は高田の構想に共鳴した横田敬太という人が講義録を発行するために設立した団体です。その趣意書は「教ゆるにも亦(ま)た術(すべ)多かり」という文言からはじまります。通学による直接指導だけが唯一の教育方法ではないはずだ。一部の恵まれた人だけでなく、向学心を持ちながらも思うに任せない多くの人々に質の高い教育を届けよう――そのような意気込みが伝わってきます。

 ほどなく通信講義録は東京専門学校の直営事業となります。当時、イギリスとアメリカを中心にユニバーシティ・エクステンション(大学開放、大学拡張)という高等教育普及運動が高まりを見せていました。早稲田はこの理念を積極的に取り入れ、通信講義録事業をその中心に位置づけたのです。早稲田の通信講義録が、異例ともいえる長期間、発行を続けることができたのは、確固とした理念に裏付けられていたからだといえるでしょう。

2.無形の学校――通信講義録の展開

 早稲田大学では通信講義録の購読者は「校外生」と呼ばれ、規則に明記されたれっきとした学校の一員でした。現在の制度と異なり、通信講義録を修了しても公的な資格が得られるわけではありませんが、早稲田の校外生には講義の聴講や図書館の利用などの権利が与えられ、試験に合格すれば正規の課程に編入されることもできました。

 講義録の執筆は主として正規の教員が担い、その中には今回展示する大西祝(はじめ)(1864~1900)の『西洋哲学史』のように学問的に高い評価を得たものも少なくありません。

 講義録は次第にその種類を増やしていき、中学科、商業科、高等女学科といった中等教育課程も設けられていきます。昭和期には建築科や電気工学科など理系分野もカバーし、まさしく「無形の学校」(高田早苗)と呼ぶにふさわしい陣容を整えていきます。

 また、質問・相談への対応、各地での校外生の会の開催、副読本の刊行、各種グッズの通信販売など、校外生生活をバックアップする仕組みもできあがっていきます。講義録の修了者は「准校友」とされました。早稲田大学に深い愛着をもった彼らは、大学にとって欠くことのできない支持基盤ともなったのでした。

3.仰ぐは同じき理想の光――多様な校外生と独学の実像

写真③渋谷定輔「五か年計画」

 通信講義録を購読する目的は、多くの場合、「専検」(専門学校入学者検定試験)など各種の検定試験・資格試験に合格して立身出世を果たすためでした。通信講義録の修了者は十人に一人ともいわれるほどの難関でしたが、その中から、後に総長をつとめることになる塩沢昌貞(1870~1945)・田中穂積(1876~1944)や、日本古代史研究に新境地を切り開いた津田左右吉(1873~1961)など、早稲田を代表する人物が現れました。

 農民運動家・詩人として知られる渋谷定輔(1905~1989)も、講義録に将来の夢を託した一人です。彼の蔵書にある『早稲田電気工学講義』臨時増刊号(1935年3月、埼玉県富士見市立図書館所蔵)の表紙には「五か年計画」と題する資格取得までの学習計画が記されています【写真③】。

 20世紀前半の日本は、東アジア一帯を勢力範囲に収める植民地帝国でした。校外生にも隣国の中国や、朝鮮・台湾など植民地の人々が多く含まれるようになります。立身の術がほとんど閉ざされていた植民地にあって、少なからぬ人々が日本語で書かれた講義録の講習に活路を求めました。

4.教育民主化の精神に則り――通信講義録の時代の終わり

写真④早稲田大学通信教育部学則 (案) (1947年)

 1930年代に入ると、講義録や副読本も次第に戦時色を帯びていきました。強まる戦時体制のもと、印刷用紙にも配給制がしかれ、講義録もページ数や部数の制限を余儀なくされます。1945(昭和20)年3月の東京大空襲では出版部の全ての印刷物を受注していた印刷所を失い、講義録は発行不能の状態におちいりました。

 敗戦後、通信講義録は教育民主化の精神を体現する媒体として再び脚光を浴びます。アメリカ式の通信教育制度の導入を促すGHQの方針を追い風に、早稲田大学も新制度に対応した講義録の刊行に乗り出し、通信教育部の新設も計画されました【写真④】。しかし、新たにはじまった都道府県の通信教育事業との競合にさらされるなど、部数減に悩まされた早稲田の講義録にかつての勢いはありませんでした。

 勤労学生の受け皿として、1949年に誕生した夜間開講の第二学部と通信講義録との二者択一を迫られた大学は、最終的に第二学部を選択します。1956年、早稲田の通信講義録は購読者の募集を停止し、70年におよぶ歴史に幕を下ろしたのでした。

 本展示会で取り上げることができたのは、長く、多様な通信講義録の歴史のほんの一端にすぎません。しかし、今回紹介するわずかな史料の中にも、「学び」に賭けた人々の思い、日々の苦悩や明日への希望、そして、彼らが格闘した時代の肌触りを感じることができると思います。本展示会が、学生のみなさんはもちろん、普段、教育の場に直に接することがない多くの方々にとっても、「学び」の意味を問いなおす機会となれば幸いです。

2016年度春季企画展 早稲田の通信講義録とその時代 1886-1956
日時:
2016年3月22日(火)~4月23日(土)10:00~17:00
休館:
日曜日 ※但し、4月3日(日)は開館
場所:
早稲田大学 早稲田キャンパス2号館 會津八一記念博物館1階 企画展示室
料金:
無料
主催:
早稲田大学大学史資料センター

廣木 尚(ひろき・たかし)/早稲田大学大学史資料センター助手

1977年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程を経て、2015年4月より現職。専門は日本近現代史。