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浅井 京子(あさい・きょうこ) 略歴はこちらから

「一行書・二行書」展について

浅井 京子/會津八一記念博物館特任教授

 「茶禅一味」ということばは、村田珠光から武野紹鴎へ、そして千利休によって完成されたという茶道の展開の中で、禅がその精神的支柱として深く関わっていたことを表わしている。

 侘茶の大成者といわれる利休は師の北向道陳や紹鴎が大林宗套(だいりんそうとう)(1480—1568 大徳寺90世)に参禅していたことから、初め大休につき、さらに笑嶺宗訢(1504—1583 堺南宗寺2世)および古溪宗陳(1532—1597 大徳寺117世)に参じた。利休が1585年正親町天皇より居士号を賜ったとき、古溪は賀頌を贈り、これを寿いだ。この頌は利休に対する印可状ともとれるものである。利休前後も大徳寺の僧と茶人たちとは深い関わりをもち、古田織部は春屋宗園から金甫の道号を受け、片桐石州は玉室宗珀・玉舟宗璠より法号・道号を受けている。また千家二世である少庵は少庵の偈を春屋宗園より与えられ、利休の孫宗旦も春屋に喝食として侍し元叔の号を受けている。こうしたことを背景に、茶会では大徳寺派の僧たちの一行書が大切に扱われてきたが、今回の展覧会では妙心寺派の僧たち、曹洞宗、黄檗宗の僧も含み21人による23件の書を展示している。書風の違いや一行に書かれた字句の意味もそれぞれの身近にひきよせて考え、鑑賞していただければ幸いである。

 以下、幾つかをとりあげ略伝と一行の意味などを記す。

[大徳寺にかかわる僧たち]

春浦宗熈(しゅんぽ そうき)(1409—1496)
 播磨の人。建仁寺乾心について得度する。24歳で大徳寺養叟に参じ、その法を嗣ぐ。寛正2年(1461)、大徳寺40世住持となる。養徳院を開く。応仁の乱のときは泉南の陽春庵にいたが、その後大徳寺に再住し、荒廃した大徳寺の復興に力を注いだ。巣庵と号す。
 「下山路是上山路」 寺を去る道は、すなわち寺に拝登する道である。

玉室宗珀(ぎょくしつ そうはく)(1572—1641)
 春屋宗園の法嗣であり、俗甥でもある。36歳で大徳寺に出世し147世住持となる。大源寺・高林寺・芳春院を創建した。しかし、澤庵らとともに紫衣事件に関与し、奥州棚倉に3年間流罪となった。
 「直指人心見性成佛」 達磨図の賛文などによく使われるこのことばは、『禅学大辞典』には「人の心そのものを直指し、自己の心性が佛性にほかならないと自覚することが成佛である」とある。

天祐紹杲
一行書
「心々無別心」

江月宗玩
一行書
「雨中看杲日」

江月宗玩(こうげつ そうがん)(1574—1643)
 大徳寺156世住持で春屋宗園の法嗣。師とともに黒田長政の庇護をうけ、博多崇福寺を中興、また大徳寺塔頭龍光院の創建に奔走する。のちに孤蓬庵や寸松庵の開祖となる。堺の豪商茶人津田宗及の子息であった江月は小堀遠州や松花堂昭乗らとも親交があり龍光院には茶道具の名器などが数多く伝えられている。欠伸子(かんしんし)、赫々子などと号す。
 「雨中看杲日」 「雨中看杲日 火裏酌清泉」の前半部分。自己を忘じたる作用をいうと『禅語字彙』にある。雨の中に太陽の光を見なさいとは常識では見えないものを見なさいといっているわけで、自己の中の佛性を確信するための精神集中により知りえる境地であろう。

天祐紹杲(てんゆう じょうこう)(1586—1666)
 近江に生まれる。萬江宗程の法を嗣ぎ、大徳寺の169世住持となる。また、大和徳源寺の開山ともなる。夢伴子(むばんし)、實夢叟(じつむそう)などと号す。
 「心々無別心」 「心外無別法」とほぼ同じ意味で、『従容録』91には「三界唯一心 心外無別法 心佛及衆生 是三無差別」とある。心の外に別に心があるわけではなく、自己の心の中にある佛性を見極めなさいということである。生前、富岡氏はよくこの書を床の間に掛けていたと伝えられている。

[妙心寺にかかわる僧たち]

白隠慧鶴
「観世音菩薩」名号

白隠慧鶴(はくいん えかく)(1685—1768)
 駿河の人。東海道原宿に生まれ、15歳の時、松蔭寺で得度する。諸国を遍歴の後24歳で信濃飯山の正受老人に心印を授与される。激しい修行に病をえたが、京白河の白幽子に内観法を伝授され克服した。32歳で父危篤の報に国へ帰る。翌年、松蔭寺に入り生涯を黒衣の衲子としてここを本拠に法施をおこなった。近世臨済宗中興の祖とも称される。遺された書画は一万点ともいわれる。
 「観世音菩薩」 名号

遂翁元廬(すいおう げんろ)(1717—1789)
 下野の人。30余歳で白隠に謁し、約20年間師事する。東嶺の推挙により、白隠のあとを継ぎ松蔭寺第2代となる。詩酒碁画を愛し、自ら酔翁と称したが、後、遂翁と改める。池大雅とも交わりを結ぶ。「大器遂翁 微細東嶺」とも称され、白隠の二大俊足の一人である。著作をほとんど残さないが、画業は真行草と自在に変化する。
 「青山常運歩」『禅語辞彙』には、動と静を一如と見たる、絶対観念を現わす也、という。

東嶺圓慈(とうれい えんじ)(1721—1792)
 近江小幡の人。9歳で出家し、17歳で古月禅材に謁する。すでに古月は老齢で思い描いていた修行がならず、23歳のとき白隠に謁し、29歳で白隠の印記を受ける。駿河比奈の無量寺を再興し、三島龍澤寺を建立し、その経営に尽力する。至道庵、尾張の輝東庵を再興する。神道にも造詣が深く、優れた文才を駆使して多くの著述を残すと共に大胆な筆力で独創的な禅書画を描く。
 「三十棒」 師家が慈悲心から学人の修道を警醒すること。『臨済録』勘辨に「師聞第二代徳山垂示云 道得三十棒 道不得三十棒」とある。

[曹洞宗の僧]

月舟宗胡
一行書
「祖月禅風」

月舟宗胡(げっしゅう そうこ)(1618—1696)
 肥前武雄の人。12歳で円応寺の華岳に従って得度する。16歳で遊方して関東に至り、常陸多宝院に掛錫する。さらに丹波瑞巌寺の万安英種に謁する。また隠元隆琦・道者超元が東明・崇福寺に住するを聞いてこれに参ずる。辞して加賀大乗寺の白峰玄滴に参じて密かに衣法を受ける。晩年は京都田原邨の古寺を浦陀洛山禅定寺と号し住す。
 「祖月禅風」

[黄檗宗の僧たち]

木庵性瑫
一行書「圓磋碧玉長」

隠元隆琦
一行書「撥一白雲晩」

隠元隆琦(いんげん りゅうき)(1592—1673)
 福建省福清に生まれる。29歳のとき黄檗山鑑源興寿につき得度、諸方遍参ののち費隠通容に嗣法した。さらにその師席をつぎ法門の宣揚に努めた。1654年、先に来日していた逸然らの招来により、僧侶・各種職人等総勢30人を率いて来朝した。寛文元年(1661)宇治に黄檗山萬福寺を開創、多いに禅風を挙揚する。日本の禅界に多大な影響を及ぼした。

木庵性瑫(もくあん しょうとう)(1611—1684)
 福建省泉州府出身で開元寺印明和によって得度した。永覚天賢(えいかくてんけん)の下で省悟し、のち費隠・隠元に参じ隠元の法を嗣ぐ。1655年に来朝、寛文元年より始まった黄檗山萬福寺の開創を援ける。同4年(1664)山主となり、幕府の助力を得て伽藍建造に着手した。諸堂伽藍は中国風に建てられ、明の仏師范道生作の像を安置し、経文の読み方、生活様式ことごとく中国風で「山門を出ずれば日本ぞ茶摘歌」と謡われるほどであった。
 「撥一白雲晩」「圓磋碧玉長」(隠元と木庵による対幅)

浅井 京子(あさい・きょうこ)/早稲田大学會津八一記念博物館特任教授

元富岡美術館学芸課長。2004年4月早稲田大学に着任、現在會津八一記念博物館特任教授。