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随筆家・市島春城

藤原 秀之/早稲田大学図書館資料管理課長

市島春城(『回顧録』口絵より)

 早稲田大学は2007年に創立125周年を迎え、大々的にその記念行事をおこなった。その折には、草創期の早稲田大学(開校時は東京専門学校)について語られることも多く、小野梓、高田早苗、坪内逍遙らの名前も、創立者である大隈重信と並んで取り上げられることもあったように思う。

 しかしその中で市島春城の名があがることは、高田や坪内、ましてや大隈とは比すべくもないほど少なかった。そもそも一般的な知名度からして彼らとは違う。「市島春城って誰?」、本稿を読んでいる方たちの中にも、そう思っている向きも少なくないのではないだろうか。

4つの顔を持つ男

 市島春城(謙吉、1860−1944)は、越後国北蒲原郡(現在の新潟県阿賀野市)に生まれた。生家は、越後国有数の豪農であった市島家の分家である角市・市島家である。少年期をそこで過ごし、漢学、英語などを学んだ後、上京して東京大学に進学、生涯の友となる高田早苗、坪内逍遙らと知り合い、さらに小野梓、大隈重信の知遇を得ることになる。その後、卒業間近に中退し、大隈重信に従って立憲改進党に参加、地元新潟で新聞社を興して自ら健筆を揮い、高田早苗の後を継いで読売新聞の主筆をつとめた時期もある。さらに衆議院議員として政界に身を置き、足尾鉱毒事件や鉄道敷設に関する法案上呈にかかわるなど、精力的に活動していたが、体調をくずし、やむなく辞職することとなったのが41歳のことであった。おりしも東京専門学校が早稲田大学へと改称し、新たな図書館建設を進めていたときであり、学校経営の中心にあった高田の勧めもあり、早稲田大学としての初代図書館長に就任、今につながる膨大にして貴重な蔵書の礎を築くと同時に大学経営にも積極的に参加、その後の早稲田の発展を支えてゆくことになる。晩年は、随筆家として20冊以上の著書を刊行、「現代随筆界の最大権威」(『早稲田学報』383所収『春城随筆』広告)と評されることもあった。このように、市島春城とは、ジャーナリスト・政治家・図書館人・随筆家と、少なくとも4つの顔を持った多彩な人物である。

市島春城の随筆

 彼の生涯については、これまで図書館長時代を中心に論じられることが多かった。確かに就任時に3万冊程度だった蔵書が5年目には10万冊を超えるなど、蔵書数は飛躍的に増加している。早稲田大学図書館がほこる貴重書の数々も市島館長時代に収集されたものも多く、15年に及ぶ館長時代が春城の人生の中でも大きな位置を占めていることは疑いない。早稲田大学とのかかわりでも、講師、あるいは理事として、さまざまな局面で経営に参画していったが、やはり図書館長としての功績がもっとも大きいであろう。ただ彼の人生は図書館だけにあったのではない。特に晩年に刊行された随筆集は、多方面にわたる春城の趣味、知識に裏打ちされた実に幅広い内容となっており、興味深い。随筆家・市島春城については近年再評価の動きがあり、随筆集の復刻や、特定分野の随筆について再編集した書籍も刊行されている。本稿では、その内容を概観することで、随筆家・市島春城について紹介したいと思う。以下、文中( )の『 』は刊行した随筆書名、「 」はその中の個々の随筆名、< >は早稲田大学図書館が所蔵する自筆資料の標題である。

随筆の概要

 春城は1921年(大正10)刊行の『蟹の泡』から、最晩年の1942年(昭和17)の『春城談叢』まで、改訂版や共著なども含めると23冊の随筆集を刊行している。その内容を大別すると、(1)自らの生涯にかかわるもの、(2)早稲田大学(図書館)に関するもの、(3)図書館や資料について、(4)人物評伝、(5)趣味全般、といったところだろうか。

 自らの生涯については、生家がおこなっていた回漕業について「千石船四十艘の多きに及び、(中略)帰着のときは千両箱一個を齎し来るのを通則とした」(『擁炉漫筆』「吾家の回漕業」)とその繁栄ぶりを述べ、自らの学生時代については、当時流行した演説会の様子を「私共の学生時代は概して演説が幼稚であつた」(『春城談叢』「演説思ひ出譚」)と語っている。ただ、自身や家族について、随筆で取り上げる機会はそれほど多くない。さまざまなことに多弁な春城も、この点では無口である。

『随筆早稲田』(表紙)

 早稲田関係の随筆は、当然のことながら数多く著している。特に『随筆早稲田』(1935年刊)は、大学が創立50周年を記念して刊行した校史『半世紀の早稲田』に対し、横、あるいは裏から見た早稲田の歴史であると、その序文で述べているとおり、草創期から1920年代にかけての早稲田大学について考えるときの格好の材料となっている。その他の随筆集でもしばしば館長時代の思い出、特に収書の楽しみや苦労について語っている。病後、高田の勧めで新装なった図書館の館長となるや、「保養かたがた毎日毎日図書漁りをや」った(『文墨余談』「小精廬談屑」)こと、特に和漢書の収集に力を入れたがその訳を「当時は和漢の書籍が坊間に沢山あつて其の価もまだ安かつた」(『回顧録』「早稲田大学の回顧」)こともあるが、それ以上に「追々亡びゆく和漢書を今集めて置かないと、他日噬臍の悔があらうと」(同前)と考えたためであったことなど、実に雄弁である。他にも田中光顕から、現在国宝に指定されている『礼記子本疏義』『玉篇』(いずれも唐代写本)を寄贈されたときの話(『春城漫筆』「早稲田大学の二大奇書」)など、興味深い記述がある。

 また、早稲田に限らず、図書館一般、あるいは資料収集全般にかかわる文章も多い。彼は図書館を「共同の大書斎」(『春城代酔録』「読書万能」)と称し、さらには当時の図書館をめぐる状況と問題点とそれを補うための私案を述べている(『随筆春城六種』「図書館の不備と其補足私案」)。また図書館についての考えを「二十五快」としてまとめているが(『春城随筆』「古書あさりと図書館生活」)、ここには収書、目録、公開といった図書館の一連の仕事と、それぞれの楽しさを端的に述べており、今の図書館員にとっても有益な指摘となっている。

 人物評伝は、みずからの知人、友人に関するもの、近世の文人墨客に関するもの、海外の著名人の逸話、の三種に分けられる。海外著名人については最初の随筆集『蟹の泡』にほとんどが収められ、他書にはあまり収録されていない。知人、友人について早稲田関係は『随筆早稲田』に多く収められているが、そこにおさまりきらない私的な部分を他の随筆集で語っている。たとえば学生時代からの友人、坪内逍遙が生まれて初めて作った俳句として春城宛書簡に記していることなど(『春城代酔録』「坪内逍遙翁」)、事実であるとすれば他ではあまり知ることの出来ないことであろう。さらには読売新聞主筆時代から「間断なく熟交を続けた」(『文墨余談』「紅葉山人」)尾崎紅葉について語った文章(『回顧録』「明治初年文壇の回顧」)からは、その早すぎる死を悼む気持ちが伝わってくる。

 春城は近世の文人についても多くの随筆を著しているが、なかでも江戸時代後期の陽明学者にして歴史家、漢詩人として有名な頼山陽については1冊にまとめており、それも数次にわたり改定、増補を加えている(『随筆頼山陽』初版は1925年刊)。その出来栄えを後に柳田泉は、多くの山陽伝を読んだが「たゞ面白いといふ点になると、市島さんの「随筆頼山陽」が第一である」(「随筆家春城翁のおもかげ」『早稲田学報』701)と絶賛している。

刊行された春城随筆の一部

 春城は趣味や道楽といったテーマでも多くの随筆を記している。自身、古書、名家書簡、印章、豆本等々、さまざまなものを収集する趣味があった。特に古書収集を主とした図書趣味に関しては「一と通り述べるにしても数百紙を要する」(『春城随筆』「図書趣味一斑」)と語っているほど、広く深い内容となっている。また、印章に関する随筆も多く、特に古い友人からもらった「島謙吉印」「春城」の二つの印が、収集の出発点であったこと(『小精廬雑筆』「二顆の印」)や、坂口安吾の父である坂口五峰(仁一郎、新潟新聞社長、文筆家)との印を通じての交流(『随筆春城六種』「印の結婚」)など、いかにも趣味人らしい逸話が遺っている。彼が収集したり、懇意の篆刻家に自分用に作らせた印の多くが、現在早稲田大学會津八一記念博物館に収蔵されている(北川博邦 監修『旧富岡美術館所蔵 市島春城印章コレクション総目録』、2008年)。他にも多くの随筆を遺した春城であるが、随筆そのものについては「心の赴くまゝ、意の動くまゝ、筆に任せて書いたもの」(『随筆春城六種』「私の随筆観」)だとしている。また、「随筆は百貨店の如きもの」(『小精廬雑筆』「随筆小言」)で、書けないものはない、というようなことも言っている。

 以上、市島春城の随筆家としての側面に焦点をあてて記してきた。実はこうした随筆には春城自身の記したネタ帳があった。それは、若い頃から日々書き溜めた日誌、筆録類と、さまざまな出来事を新聞、雑誌などから切り抜いた貼込帖である。

 現在早稲田大学図書館には春城の日誌が1886年(明治19)から1939年(昭和14)まで収蔵されている。日々の出来事、来客、書簡のやり取り、その他諸々、倦むこと無く書き綴った膨大な記録の山である。さらに春城は多いときに月に1冊の割合で随筆を記していた。晩年の日誌によれば「本年の日録を「自娯耄碌」と題署し、毎月一冊筆録を期し歳尾迄十二冊録し畢る。これ余が随筆也」(<小精廬日誌>昭和七年起居摘注)とある。これらの筆録は活字となった随筆の草稿のようなものから、新聞記事や雑誌などからの切り抜きとそれに対するコメントなど、思いつくままに書き記したもので、こうした日記や筆録が、晩年の随筆刊行のネタとなったのである。ある年の日誌には「本年閑筆を弄する殊ニ多く、敢て原稿料稼ぎをなすにあらさるも各所より寄セ来る謝金千円ニ垂んとす、老後酒資ニ窮セさるハ幸と云ふべき歟」(<小精廬日誌>昭和八年起居摘録)とある。ジャーナリストとして世に出、国会議員でもあり、早稲田大学図書館長として多くの業績のあった人物は、そこそこ売れっ子の随筆家でもあった、ということである。これらの春城自筆資料の多くが早稲田大学図書館が構築中の古典籍総合データベースで全文をご覧いただくことができるので、参照されたい。

 2010年は、春城の生誕150年にあたる。これを記念し、早稲田大学では春城の銅像を図書館に設置することとした。学内にはすでに大隈重信、小野梓、高田早苗、坪内逍遙らの銅像がある。総合学術情報センター(中央図書館)中庭には、かつてこの地にあった野球場の名残として安部磯雄、飛田穂洲の銅像もある。しかし、図書館にとってもっとも大事な人物ともいえる春城の像は無く、これまでもそれを望む声もあったが実現できずにいた。今回、彼ともっとも縁のある図書館に春城像を設置し、その業績を称え、あわせてその生涯をたどる展覧会を開催することとした。彼の遺した記録を通じて、早稲田大学のみならず、近代日本を感じていただければ幸いである。

生誕150年記念 市島春城展
会場:
総合学術情報センター2階展示室、3階市島記念室
日程:
2010年3月5日~4月21日(日曜・祝日閉室)
時間:
展示室)10:00~18:00
記念室)10:00~17:00(土:14:00まで)
記念室は会議等で利用する場合、閉室いたします。
問合先:
早稲田大学図書館 tel:03−3203−5581
http://www.wul.waseda.ac.jp/index-j.html

3月5日13:00より、会場前ホール(中央図書館入口前)に於いて、「春城市島謙吉先生像」の除幕式が挙行されます。

市島春城刊行随筆一覧
随筆集
書名 出版社 出版年月
『蟹の泡 奇談一五〇篇』 早稲田大学出版部 1921.12
『芸苑一夕話』上・下 早稲田大学出版部 1922.4
『随筆頼山陽』初版 早稲田大学出版部 1925.3
『随筆頼山陽』訂正増補版 早稲田大学出版部 1926.6
『春城随筆』 早稲田大学出版部 1926.12
『漫談明治初年』同好史談会編 春陽堂 1927.1
『随筆春城六種』 早稲田大学出版部 1927.8
『春城筆語』 早稲田大学出版部 1928.8
『春城漫筆』 早稲田大学出版部 1929.12
『春城漫談』乾・坤 市島謙吉編刊(非売品) 1931.10
『小精廬雑筆』 ブツクドム社 1933.11
『春城代酔録』 中央公論社 1933.12
『文墨余談』 翰墨同好会・南有書院 1935.8
『随筆早稲田』 翰墨同好会・南有書院 1935.9
『文人墨客を語る』 翰墨同好会・南有書院 1935.12
『春城閑話』 健文社 1936.2
『擁炉漫筆』 書物展望社 1936.3
『随筆頼山陽』改訂決定版 翰墨同好会・南有書院 1936.6
『鯨肝録』(学芸随筆5) 東苑書房 1936.12
『余生児戯』 冨山房 1939.11
『回顧録』(市島春城選集1) 中央公論社 1941.3
『春城談叢』 千歳書房 1942.8
『随筆頼山陽』(市島春城選集2) 中央公論社 1942.11
随筆ではないが春城の言葉を伝えるもの
『大隈侯一言一行』 早稲田大学出版部 1922.2
『半峰・春城・逍遙三翁 熱海漫談』
薄田斬雲 編著
富士書房(春陽堂発売) 1929.10
『半峰・春城・逍遙三翁漫談』
薄田斬雲 編著
富士書房 1930.8
『熱海を語る 逍遙・半峰・春城 三翁座談録』
薄田斬雲編
温泉旅館聚楽:熱海 1936.7
『春城八十年の覚書』 早稲田大学図書館編刊 1965.5
近年刊行された復刻版など
『市島春城古書談叢』(日本書誌学大系3) 青裳堂書店 1978.8
『半峰・春城・逍遙三翁 熱海漫談』覆刻版 鳴沢文庫:熱海 1982.11
『市島春城随筆集』(全11巻) クレス出版 1996.5
『春城師友録』(知の自由人叢書) 国書刊行会 2006.4

藤原 秀之(ふじわら・ひでゆき)/早稲田大学図書館資料管理課長

1963年生。早稲田大学文学研究科修士課程修了。専門は日本史(古代史・史料研究)。『市島春城随筆集』解説と解題(クレス出版)、「画指の研究」(『史観』142)、「早稲田大学図書館所蔵伊能図(大図)について」(『早稲田大学図書館紀要』54)など。