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キャンパスナウ

▼2015 盛夏号

SPECIAL REPORT

早稲田と演劇、その密な関係

1928年に坪内逍遙先生が演劇博物館を創設したとき、早稲田大学には、演劇界を盛り上げ、演劇の持つ可能性を追求するという使命が下ったのかもしれません。早稲田と演劇の切っても切れない、密な関係に迫りました。

対談

早稲田小劇場どらま館で次世代の演劇文化をつくる

4月23日、早稲田小劇場どらま館の開館を記念して、「都の西北から劇場文化を発信する」をテーマに大隈記念講堂でトークショーが開催されました。世界を舞台に演劇の第一線で活躍を続ける平田オリザ氏と、学生時代に演劇サークルで活動していた鎌田薫総長。2人による熱い演劇対談に、会場を埋め尽くす700名の学生ら観客が湧きました。その内容をご紹介します。

出席者
劇団青年団主宰 平田オリザ氏
鎌田 薫総長
[司会]岡室美奈子演劇博物館館長

早稲田小劇場どらま館復活の意味

劇団青年団主宰
平田オリザ氏

岡室  本日は、早稲田小劇場どらま館の開館を記念して、鎌田総長と現代口語演劇で知られる平田オリザさんに、早稲田の演劇と日本の演劇文化について思う存分語り合っていただきたいと思います。まず、お二人の演劇との出会いについてお聞かせください。

平田  8歳上の姉に連れられて小学5~6年生からつかこうへいさんとかの舞台を観ていました。自ら足を運ぶようになったのは大学生の頃。野田秀樹さんが私の地元の駒場小劇場と紀伊國屋ホールで交互に上演していた、今から考えると夢のような時代を体感しています。

岡室  70年代に当時の演劇界を牽引していたつかこうへいさんの芝居で育って、80年代には野田秀樹さんの演劇をご覧になって、90年代になると宮沢章夫さんたちと静かな演劇ブームを作られたんですね。総長はいかがですか。

鎌田  高校入学のときに東京に来て、新劇を観るようになりました。当時は大劇場中心で66年頃からアングラ演劇が隆盛になりました。大学入学後は、「自由舞台」に入って裏方をしていました。「自由舞台」は、戦後すぐに創立されて、外国の演劇祭に招待されるほどの名門劇団でしたが全共闘運動の高まりの中で解散をしました。OB・OGには現在活躍中の演劇人も多いです。

岡室  サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を大隈講堂で上演されたとか。

鎌田  「自由舞台」ではなく他の劇団の照明を請負ったときのことですね。大隈講堂は前方の照明が足りないので、小型トランスをもって屋根裏に上ってスポットライトで照らしていたのですが、徹夜で仕込みをしたのと暖かさで、不覚にも寝てしまったんです。暗転のときに、私が持っていたスポットが消えずに、困らせてしまいました(笑)。

岡室  「自由舞台」の先輩である鈴木忠志さんや別役実さんが、卒業後に劇団「早稲田小劇場」を旗揚げして、喫茶店「モンシェリ」の2階に同名の劇場を作ったのが1966年。1976年に鈴木忠志さんが富山県利賀村に拠点を移した後は、劇集団流星舎(代表:森尻純夫氏)が運営を引き継いで劇団の拠点とし、劇場名を早稲田銅羅魔館と改名しました。その後、木造から鉄筋コンクリートの5階建てビルに改築され、1997年に早稲田大学がその劇場を引き受けて「早稲田芸術文化プラザどらま館」として学生の演劇公演に使っていましたが、耐震基準を満たしていなかったために取り壊しになってしまいました。それがこのたび、興業ができる劇場として復活したわけです。

鎌田  新しい劇場の名称は、「早稲田小劇場どらま館」です。鈴木忠志さんが立ち上げ、あの場所で公演していた劇団の名前を頭につけることを快く許してくれました。

岡室  早稲田小劇場どらま館は、72席の小さな劇場ですが、天井の高さがあり開放感があって使い勝手がよい設計になっています。座席と舞台はいかようにも組み替えることができますし、3階の調整室からも舞台が見やすく設計されています。どんどん活用していただきたいですね。

平田  小さくても本格的な劇場を使うことで、劇団の力は鍛えられると思います。100人以下の席数は学生劇団[1]にはちょうど良いですね。

岡室  また、総長たってのご希望で、南門通り商店街を盛り上げるため、一階には売店が設けられます。

鎌田  早稲田は学生演劇のメッカです。早稲田小劇場どらま館の開館を機に、かつての勢いを復活させたいですね。もっと大きなことを言えば、東京の演劇シーンを盛り上げるくらい、活用してほしいと願っています。ちなみに小野講堂も、もともとは小劇場として設計され、非常に立派な設備を整えています。大隈講堂、小野講堂、そして早稲田小劇場どらま館が活用され、早稲田がブロードウェイのような街になればよいと思います。

日本にも豊かな劇場文化を

[司会]
岡室美奈子演劇博物館館長

岡室  最近は学生劇団が上演にフリースペースを使うことが増えていますが、そもそも劇場とは何でしょうか。

平田  基本的に私たちは、劇場文化を定着させたいと考えています。日本のお客様は劇場に足を運ぶとき、有名な俳優が出演しているとか、せいぜい有名な演出家が演出しているという理由で演目ごとに考えますが、欧米の場合は劇場が提供する年間プログラムを信頼して会員になったりして、習慣性を持って通う場所になっています。
 早稲田小劇場どらま館は、早稲田大学が運営することに大きな意味がありますね。米国のイリノイ州立大学がある街は、人口約8万人のうち約5万人近くが大学関係者ですが、大学が社会的責任を持って大中小の劇場を運営、維持し、街の公的文化政策の一端を担っています。プリンストン大学には、構内に劇場も美術館もあって、研究者たちは校内で気軽に一流の舞台や絵画を鑑賞することができます。日本の大学にも、頭を鍛える場だけでなく、心を慰める場所が必要だと思いますね。

岡室  なるほど。早稲田小劇場どらま館の運営にあたって、どのようなことが大切でしょうか。

平田  大切なのは、誰のための劇場かということです。サークル活動をするだけの劇場か、市民のための社会貢献的な機能を持つのか。目的はいろいろあるでしょう。ただ、早稲田大学の場合は、サークル活動といっても学生劇団がそのままプロの劇団[2]に育ち、演劇文化を支えてきたという特殊事情があります。一方で、演劇研究の授業はありますが、実技の授業はありません。早稲田小劇場どらま館がどこを目指すのか、2~3年くらいかけて議論をして、決まってくるのでしょうか。

岡室  確かに早稲田大学には、坪内逍遙が演劇博物館[3]を1928年に創立した頃から演劇研究と教育の歴史と伝統がありますが、実技の教育はしていません。でも演劇はずっと盛んで、プロの劇団や演劇人を多く輩出しています。その早稲田大学が劇場を持ち、どこを目指すのかは、重要なポイントですね。

鎌田 薫総長

鎌田  そもそも早稲田小劇場どらま館を復活させたのは、スチューデントコンペティション[4]における学生からの提案もきっかけの一つでした。そうした意味では、学生の側のニーズに応えることが第一の目的だと思います。一方で、学生だけに任せておくのではなく、大学としてのポリシーを持って劇場文化を広く発信していきたいですね。当面は二兎を追いたいと考えています。

岡室  学生の利用と外部の利用をいかに両立させるか、ですね。今回は、こけら落としで、平田さん作・演出の「アンドロイド版『変身』」を公演しました。国際的に評価の高いプロの劇団をお招きできることは素晴らしいことだと思います。また、プレ公演では早稲田出身者中心の3つの劇団が公演しました。演劇に関わっている学生たちにとっては、早稲田の先輩が身近な場所で素晴らしい作品を公演してくれること自体が、励みになるのではないでしょうか。

早稲田の街を祝祭空間に

鎌田  私は、早稲田小劇場どらま館の復活を機に、早稲田の街を恒常的な祝祭空間にしていきたいと考えています。生き生きとして、風格があり、卒業して何年か経って戻ってきても温かく受け入れてくれるような文化的で、娯楽が揃った街にしていきたい。大隈講堂、小野講堂、早稲田小劇場どらま館の3つの劇場や演劇博物館の前舞台でそれぞれの規模に応じた演劇やダンスを公演し、相乗効果を発揮していければよいですね。

岡室  大隈講堂は、かつて「天井桟敷」[5]の旗揚げ公演が行われるなど、重要な演劇の拠点でしたね。

鎌田  学生サークルも自分たちの輪に閉じこもるのではなく、学外に目を向けてほしいと思います。昔から早稲田の学生は、大学内だけでなく早稲田の街や新宿の飲み屋で学び、育ってきました。これを機に学生街の活気を取り戻したいと願っています。新宿にも芝居の拠点がいくつかあるので、連携しながら新宿演劇祭などができたら良いですね。夢物語かもしれませんが、夢は頑張れば現実になると思いますので、努力したいと思います。

平田  それだけの施設をお持ちなのですから、大隈講堂はともかく、小野講堂と早稲田小劇場どらま館の管理運営を一体化させ、演劇の専門家に運営を任せたほうがよいと思います。桜美林大学には演劇専修がありプルヌスホールという劇場がありますが、館長と芸術監督を置き、将来公共ホールで仕事をしたいと考えている人を研究補助員として有期雇用しています。まず大学側が、劇場は専門性が高い場所であるという意識改革をすることが必要だと思います。

岡室  早稲田大学では、演劇の実践的な教育をしているわけではないので、どのように劇場運営ができる人材を育てるかという課題があります。

鎌田  それはあまり気にしなくてよいのではないでしょうか。早稲田大学の伝統の一つですが、大学で勉強したこと以外の分野で大成する人も多いわけですから、必ずしも教育としてやらなくてもよいという考え方もあります。学生たちの自由な発想と実体験の集積の組み合わせに期待してはいかがでしょうか。

岡室  早稲田小劇場どらま館での実践を通じて、劇場を運営できる学生が出てくるとよいですね。そのためにも平田さんがおっしゃるように専門的な能力を持ったスタッフがいることは大切だと思います。最後に、早稲田小劇場どらま館に対する期待をお聞かせください。

平田  ぜひとも成功させてください。早稲田小劇場どらま館が成功すれば、大学が劇場を持つことが当たり前であることの証明になります。私も可能な限りお手伝いしたいと思います。

鎌田  かつて日本の小劇場文化[6]を盛り上げた「早稲田小劇場」の心意気を若い世代に引き継ぎ、発展させていかなければならないと思います。学生諸君には、それに見合った覚悟で公演をしていただきたいと思います。

早稲田演劇を語るキーワード
1 早稲田の学生劇団^

劇団「森」公演の様子

 戦前より活動していたと言われる「早稲田大学演劇研究会」、1953年に設立され、大隈講堂裏に専用のアトリエを持つ「劇団木霊(こだま)」、1960年頃に設立され、アングラから現代口語劇まで様々な舞台を展開する劇団「森(しん)」、1974年に手塚宏二を中心として結成された「てあとろ50'」、ユニット制により劇団内から新たな劇団が独立していくことで優れた人材を輩出してきた「演劇倶楽部」など、舞台の志向においても活動形態においても多種多様な学生劇団が多く存在する。

2 早稲田が輩出したプロの劇団^

 早稲田大学の学生劇団出身者によって結成された劇団は多い。演劇研究会からは鴻上尚史らが旗揚げした「第三舞台」、堺雅人が在籍した「東京オレンジ」、池田成志らが在籍した「山の手事情社」、「てあとろ50'」からは上川隆也が所属した「キャラメルボックス」、「演劇倶楽部」からは八嶋智人が在籍した「カムカムミニキーナ」、三浦大輔や安藤玉恵が旗揚げした「ボツドール」など。

3 演劇博物館^

 坪内逍遥の古希と、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協力により設立。日本国内はもとより、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃える。1987年に新宿区有形文化財に指定。坪内逍遥の発案で、エリザベス朝時代、16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して設計された。正面舞台の張り出しは舞台になっている。

4 スチューデントコンペティション^

 学生が本学の中長期計画である「Waseda Vision 150」に関連するテーマを自由に設定し、具体的な施策を提案。実現性が高く、実施による効果が見込める提案を総長が表彰し、大学の具体的な改革案策定時の参考にする。

5 演劇実験室・天井桟敷^

 寺山修司が1967年に結成。演劇実験室を標榜し、映画、写真、競馬評論など多岐にわたる活動が行われ、多くの話題を生んだ。

6 小劇場文化^

 日本における小劇場文化は、1960年代の安保闘争を背景に、反体制を掲げて生まれた。それまでは、劇団はホールを借りて公演することが主流だったが、自前の劇場を持って活動したことから、小劇場運動と呼ばれた。これまでに3つの波があり、1960年代に劇団を結成した第1世代(唐十郎、鈴木忠志、蜷川幸雄、寺山修司、佐藤信ら)、1970年代に第1世代の影響を受けた全共闘世代の第2世代(つかこうへい、山崎哲ら)、1980年代に学生劇団を母体として生まれた第3世代(野田秀樹ら)に分かれる。