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プロ・ローグ

花田 達朗(はなだ・たつろう)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授 略歴はこちらから

ドイツへの恩義

花田 達朗/早稲田大学教育・総合科学学術院教授

 学問や学術や研究という日本語があり、scienceやresearchという英語があるが、私にとって一番シックリくるのはWissenschaftというドイツ語である。私は自分のことを学者や研究者というよりもWissenschaftlerだと思っている。翻訳すればほとんど区別はつかないだろう。しかし、言葉には語感というもの、身体感覚というものが付きまとう。

 私がそう思うのは、私が(西)ドイツで学問的トレーニングを受け、Wissenschaftlerとしての自己認識を得たからである。私は早稲田大学を卒業し、4年ほど社会人をやったあと、日本からドロップアウトした。もう日本に帰るつもりはなく、片道切符だった。ドイツ語を勉強して、ミュンヘン大学に入学した。銀行口座の残高がゼロに近づいたとき、州政府から奨学金が出るようになり、救われた。奨学金の延長のためには良い成績を取らねばならず、猛烈に勉強した。私の頭はドイツ語へ、いやドイツ語によって表現される思考方法へ組み替えられていった。平行して日本語を対象化する感覚も強くなっていった。言葉によって多くの人々と渡り合い、それを楽しむようになった。

 11年後、故あって日本に帰らざるを得なくなった。メディアを研究するWissenschaftlerとなっていた。帰国して6年、1992年に社会情報研究所が作られるのに際して私は東京大学に呼ばれた。私は個人的にはそこにフランクフルト社会研究所(戦前・戦後に「批判理論」に関連する人々が集まった研究所)の再来をTokioに作ることを夢見て、その招聘を受けた。ポリティカル・エコノミーや公共圏論を道具箱に詰め込んで、批判的社会科学研究の一翼としてメディア・スタディーズをパワーアップすることに努めた。

 やがて英国に隆起していたカルチュラル・スタディーズと接触した。英国ではポリティカル・エコノミーとの間で結婚か離婚かと問題になっていた。1996年に大きなシンポジウム「カルチュラル・スタディーズとの対話」を主催した。フランクフルトとバーミンガムとTokioを繋ぐことを夢見たのだ。しかし、この会議の帰結は個人的には惨憺たるものだった。ひどい失望と屈辱を味わうことになった。やらなければよかったと思った。簡単に夢を見てはいけないのだと悟った。それからというもの私は日本ではカルチュラル・スタディーズについて沈黙することにした。

 2年後にジャーナリスト教育というテーマに首を突っ込んだ。日本の大学の中にそういう教育プログラムを制度化する必要があると考えたからである。新しいメディア構造の下で新しいコンセプトによってそれを試みようと思った。私がドイツに渡った1975年、ミュンヘン大学やドルトムント大学がそれをパイロット・プロジェクトとしてスタートさせたことも思い起こし、それに繋がろうとした。

 と同時に、秘かに考えてきたことがある。私にとってジャーナリスト教育とはカルチュラル・スタディーズの実践だった。カルチュラル・スタディーズについて語ることは決してせず、しかしそれを自己と他者の相互作用の中でお互いの認識の変化を発生させようという教育実践のプロジェクトの中に溶かし込むということだ。3年前に早稲田大学へ移り、より有利な立地条件の中で「公共圏の耕作者」の育成を目指してきた。今エネルギーを注いでいるのは学部学生の副専攻としてのジャーナリズムコースである。オープン教育センターのテーマスタディの仕組みがそれを可能にしてくれた。これは面白い。あらゆる学部からジャーナリズムに関心のある学生たちが集まって来る。みんな活き活きしており、士気は高い。

 私の趣味はと言えば、銭湯である。様々な年齢の男たちの裸の姿とそこに刻み込まれた歴史を漠然と見やりながら、たとえばドイツでの苦楽の経験に記憶の輪を投げる。私は自分を鍛えてくれたドイツに足を向けて寝られないと思っている。ドイツにいて最も恋しかったのは銭湯だった。今それに浸かりながら、ドイツというものへの恩義を想う。そして次に見るべき夢を探す。

花田 達朗(はなだ・たつろう)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授

71年早稲田大学政治経済学部政治学科卒。ミュンヘン大学大学院修了。92年東京大学社会情報研究所(旧新聞研究所)助教授、95年教授、03年所長。04年同大学院情報学環教授・学環長。03~05年度東京大学評議委員。06年4月から早稲田大学教育・総合科学学術院教授。