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▼10月号

プロ・ローグ

草野 慶子(くさの・けいこ)/早稲田大学文学学術院教授 略歴はこちらから

ロシア文学を通じて世界とのつながりを感じる

草野 慶子/早稲田大学文学学術院教授

 私がロシア文学の研究を目指すきっかけとなったのは、高校2年生の時に読んだ、ドストエフスキー著『罪と罰』です。学校からの帰宅途中に電車の中で『罪と罰』を読み、心をつかんで投げられたような衝撃を受けました。そして、人目も憚らずその場で泣いてしまったのです。当時は受験勉強そっちのけで読書ばかりしていたのですが、これほどまでに心を揺さぶられた本は、『罪と罰』をおいてほかにありませんでした。以来、ドストエフスキーをはじめとするロシア文学を読みあさり、それが現在の研究へと結びついています。今でも、『罪と罰』のことを考えると涙が出そうになるくらい。私にとっては永遠のバイブルなのです。

 現在、私の研究は、「<私>をどうのりこえるか」という問題、それをめぐる20世紀初頭のロシア文化のさまざまな試みを対象としています。これは、当時のロシア文化において非常に大きな主題でした。有限な<私>のあらわれとしてのエゴイズム、そして死ののりこえのために、当時のロシア知識人は、科学の発展で死を克服したり、新たな共同体を形成し個人という枠組を壊すことなどを考えていました。授業では、そうした思索のひとつであり、当時のロシア文化において中心的なトピックとなっていた、性愛についても論じています。もちろん、これは地上的な色恋の話ではありません。エゴイズムののりこえとしての性愛という観点から、文学だけでなく美術や舞踊などの芸術を題材に、恋愛の意義や家族・夫婦のありかたについて考察するなど、人間の根源的なテーマを追究しています。

草野教授お気に入りのロシアグッズ。画集は、音楽と絵画を融合させたリトアニア出身の画家であり作曲家でもあるチュルリョニスのもの。バレエのDVDは、ロパートキナ。その美しさは涙が出るほど。中央下にあるマスコットは、ロシアのアニメーションキャラクター、チェブラーシカ。

 ロシア文学は、<世界>そのものとつながることができる文学です。<世間>で上手く生き抜く方法や、教訓を語るのではなく、世界をありのままに捉え、人間の本質を情熱と静寂の両面から語ります。私が『罪と罰』に感銘を受けたのも、世間での成功法を見つけたからではなく、一語一語から力や命がほとばしるのを感じ、世界とつながる感覚を得たからなのです。

 文学や芸術は実学的ではありませんし、すぐに役立つものでもありません。しかし、職業選択のために直接的に役に立たないものは学ぶ価値のないものなのでしょうか。最近の学生を見て心配になるのは、「今」の自分の気持ちを本当に大切にしているのかな、ということです。学生の皆さんは、中学生の時は高校のことを考え、高校生の時は大学のことを考え、大学に入ればすぐに就職の心配をし、なりたい職業を最初から決めており、実学的なことだけを求める傾向があります。それは間違ってはいないのかもしれませんが、「今」自分が何をしたいのかという大事な部分が抜け落ちているように、未来のために現在が空洞化しているように、感じます。もちろん、将来のことを考えることは大切ですが、せめて学生のうちは、さまざまなことに触れ、自らの可能性を狭めないでほしいですね。

 学生は土が水を吸うように、多くのことを吸収していきます。そんな彼らに、私の講義が、何かの気付きを与えられたらいいなと思います。文学を知らずとも生きることは可能ですが、その生の質や強度は確実に低くなります。世界の名作と呼ばれる絵画や映画と同じくらい、文学の名作にも触れてみてください。きっと、新しい世界に出会えるはずです。

草野 慶子(くさの・けいこ)/早稲田大学文学学術院教授

1990年第一文学部ロシア文学専修卒業。大学院文学研究科に進み、ロシア文学の研究を続ける。1996年専任講師、2000年助教授、2005年に教授となる。専門は、20世紀ロシア文学。