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▼錦秋号

第二世紀へのメッセージ

市川 團十郎さん 略歴はこちらから

文化の多様性を保つために日本の伝統文化の価値を見直そう。

市川 團十郎さん/歌舞伎役者 十二代目

 2010年より本学への支援および助言をいただく特命教授に就任された十二代目市川團十郎さん。初舞台から大学生の頃までのお話や、日本文化に対する考え方、特命教授としての抱負など、示唆に富む多くのメッセージをいただきました。

晴れの舞台での失敗で歌舞伎役者の道を決意

――初舞台は7歳の頃とお聞きしていますが、その頃のことをお聞かせください。

 『大徳寺』という演目で、織田信長の孫である三法師の役をつとめました。真柴久吉(豊臣秀吉)の役をつとめた父に抱かれて、武将たちがひれふすシーンで登場しました。その武将たちの役は、おじに当たる当時の尾上松緑さんや市村羽左衛門さんたちが演じており、7歳の私に向かってひれ伏すわけです。これは気持ち良かったですね(笑)。当時の生活は楽しかったですよ。学校が終わったあと、“歌舞伎”という大人たちの世界に入る生活をしている自分が、とても誇らしく感じたものです。

 ところが、中学生になって変声期になると、子役もできず、大人の役もできなくなります。自分には歌舞伎役者としての才能がないのではないかと、真剣に悩むようになりました。そして、反抗期も重なり、ほかの道も考えることもありましたね。

――その後、やはり歌舞伎役者で行こうと思ったきっかけは何ですか。

 16歳の時、私は父の十一代目市川團十郎襲名披露公演に出演しました。「助六」という市川家の代表的な演目で、父は主人公の“助六”を演じ、私は“福山のかつぎ”という役で出演しました。正直なところ、私の演技は、決してほめられたものではありませんでした。一言セリフを言うたびに、お客様がクスクス笑うのが聞こえてきたほどです。親父の晴れの舞台で倅(せがれ)がこれでは申し訳ないと思い、それ以降、真剣に歌舞伎に取り組むようになりました。

 その後、私は日本大学芸術学部に進学し、そこで、日本と西洋の演劇の根本的な考え方を学びました。これは、芸を深める上で、大いに役に立ちました。

日本語が持つ“情緒”を大切にしたい

――海外公演に積極的に取り組むなど、日本文化の発信に積極的ですね。

 ヨーロッパの人々と話をしていると、彼らが自国の文化を誇りに思っているのを感じます。日本も、特に江戸時代は、世界的にみて優れた文化を持っていました。ところが日本人は、特に敗戦以降、自国の文化を卑下して捨て去ろうとしてきたのではないでしょうか。私は、自分たちの文化を誇りに思うことが、真の国際化に向けた第一歩だと思っています。なぜなら、現在、国際化が進むなかで、世界は一つの方向に統一されていく傾向がありますが、そうした時代だからこそ、文化は多様性を保つ必要があると考えるからです。

 歌舞伎には、武士道や茶道、わび、さびの感覚など、日本文化のさまざまな要素が取り入れられています。海外で公演し、高い評価を受けることで、逆に日本人に日本文化の素晴らしさを再認識していただきたいと思っています。

 また、文化の多様性を保つ上で、人々が母国語を大切にすることがポイントだと考えています。英会話の習得は必要なことだと思いますが、日本人にとって英語はあくまでもツールです。人間の思考は母国語によってなされます。言語によって語順や言い回し、思考の方法が違います。そうした違いが、文化の多様性の根底にあるのです。ですから私たち日本人は、英語をはじめ他の言語にはないけれど日本語が持っている“情緒”というものを、大切にしなければならないと思っています。

――具体的なエピソードはありますか。

 日本には「紅葉狩」という習慣があり、歌舞伎の演目にもなっています。フランスでこの演目を公演することになったとき、そのニュアンスをどのように翻訳するかについて、翻訳者の方と大いに議論しました。ヨーロッパでは、“枯葉=死”を意味しているようですが、紅葉狩のニュアンスとはちょっと違う。“行楽”というのも果たして正しくニュアンスを伝えていると言えるのか……。結局、「紅葉を瞑想的に眺める」という意味で翻訳をすることになりました。妥協することなく日本語の持つ“情緒”について主張したことで、紅葉狩という言葉の持つニュアンスを伝えることができたと思います。

 もちろん、自らの考えをぶつけるばかりではなく、よいものを他文化から吸収することも大切です。実は歌舞伎は“貪欲な演劇”であり、特に明治以降はかなりヨーロッパ文化を吸収してきました。例えば、歌舞伎十八番に入っている「鳴神」「毛抜」という演目は江戸時代からあったものですが、明治以降に入ってきたヨーロッパの戯曲の影響を大きく受けました。また、「白野弁十郎」として翻案されたフランスの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を、歌舞伎として上演している例もあります。歌舞伎は、多様な文化を受け入れながら発展してきているのです。

演者の立場から文化を伝えていきたい

――これまでいくつかの大学で教鞭をとられてきましたが、最近の大学生の印象を教えてください。

 今の大学生は、独立心が旺盛だと思います。一昔前は、みんながこっちだよというと、みんながわーっと行ってしまう印象がありましたが、今の人たちは、自分はこう思うからこう行動する、といった人が多いように思います。学生たちに歌舞伎について教えていても、退屈そうにしている人がいても、そうした学生たちに流されずに、興味を持って聴いてくれる学生が多くなってきたように感じます。これは、とてもよい傾向だと思います。そういう学生に対して、教える側がきちんとした内容のものを提供していくことが大切です。

――本学へのメッセージをお願いします。

 早稲田大学は演劇博物館という機関を擁し、歌舞伎などの日本の伝統文化を、学術的にもモノとしても残していることから分かるように、日本の伝統文化を大切にしている大学であると思います。またこれまでに、幕末から明治の歌舞伎狂言作者・河竹黙阿弥のご子孫である河竹登志夫先生(編集部注:本学名誉教授)をはじめ、さまざまな先生方にご教授もいただいており、大変感謝しております。

 またこのたび、特命教授を拝命したことを、大変光栄に思っています。文化は、学問として研究することはもちろん大切ですが、実際に演じている立場から、普段何を思い、どんなことを伝承されているのかを伝える機会はなかなかありませんでした。今回、このような機会をいただきましたので、私の経験を土台に、少しでも多くの方に日本の伝統文化について、お伝えしていきたいと考えています。

企画展「七代目市川團十郎展―生誕二百二十年によせて―」
演劇講座「七代目市川團十郎の芸と波乱万丈の生涯」

 9月21日、演劇博物館で、市川家の所蔵資料や学界未知の巡業資料を館蔵資料とともに展示し、七代目市川團十郎の起伏に富んだ生涯を振り返る企画展が開幕(~11月13日)。また企画展に関連し、9月26日に大隈講堂で開催された講演会では、團十郎氏が、芸域の広さで知られ歌舞伎十八番を制定した七代目の博識で洒落心がある人物像やその波乱に満ちた生涯を、魅力溢れる口調で語り観客を魅了しました。

講義をする團十郎氏(左)

寄託・寄贈された七代目直筆の屏風や書籍

市川 團十郎(いちかわ・だんじゅうろう)さん/歌舞伎役者 十二代目

1946年、九代目市川海老蔵(十一代目市川團十郎)の長男として生まれる。1953年、歌舞伎座にて『大徳寺』の“三法師”で市川夏雄と名乗り初舞台。1958年、歌舞伎座にて『風薫鞍馬彩(かぜかおるくらまのいろどり)』の“牛若丸”をつとめ、六代目市川新之助を襲名。1969年、歌舞伎座にて『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』の“助六”、『勧進帳』の“富樫”をつとめ、十代目市川海老蔵を襲名。1985年4月~6月、歌舞伎座の3カ月にわたる襲名披露公演にて、十二代目市川團十郎を襲名。2010年より、本学特命教授に就任。日本大学芸術学部卒業。