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第二世紀へのメッセージ

小池 唯夫さん 略歴はこちらから

時代と向き合い続けた原点は、ここ早稲田にある。

小池 唯夫さん/毎日新聞社顧問

 1960年代に政治記者としてのキャリアをスタートさせた小池さんは、日中国交正常化交渉や沖縄返還協定など、日本外交史における重要な節目に立ち会われてきました。社長就任以降は、オウム真理教による抗議活動などへの対応に追われますが、強い使命感とともに時代と向き合い続けてこられた原点は、早稲田の地にありました。これまでの歩みを振り返っていただきながら、本学に対する思いを含めてお聞きしました。

「言論の早稲田」を肌で感じた日々

――本学ではどのような学生生活を過ごされていたのでしょうか?

早大在学中にゼミの仲間と(左端が小池氏)

 4年間よく学び、よく遊び、多くのことを吸収させてもらいました。人生を70数年歩んできて振り返ってみると、学生時代は本当に「良き時代」だったと感じます。特に印象に残っているのは、吉村正先生の言葉です。その頃は全学連のデモなどで世間が非常に騒がしかったのですが、先生は「世の中が騒然としているときほど、学生は政治の基本を学ぶべきだ。騒ぐことはいつでもできる。早稲田大学での貴重な時間は勉学に費やしてほしい」とおっしゃっていました。

 その言葉に従い、海老沢勝二君(元NHK会長)らと政治学の原書を輪読する「政治学会」というサークルを結成しました。また、吉村健蔵先生の国際政治ゼミで、E.H.カーやハンス・J.モーゲンソーといった現実主義の思想を学びました。大学近くの蕎麦屋で友人たちと酒を酌み交わしながら、現実主義や理想主義について議論しあったのは懐かしい思い出です。

――新聞記者を目指されたきっかけは何ですか。

 やはり早稲田大学に入学したことが大きかったです。当時、大隈講堂では国会議員による立会演説会が頻繁に開催され、また早稲田の先輩である朝日・毎日・読売の政治部記者も檄(げき)を飛ばしにくる。「役人になるなら東大」「商社・銀行マンなら慶應」など、各大学に気風のようなものがありましたが、むろん早稲田は「言論、ジャーナリズム」。それを肌で感じる環境のなかで、私も新聞記者という仕事を意識せずにはいられませんでした。それに「大学で学んだ政治学を生かせる仕事は新聞記者しかない」という思いもあった。記者は当時から人気の職種でしたが、就職活動では新聞社一本に絞り、毎日新聞に入社することができました。

念願の政治部で歴史の生き証人になる

――新聞記者という仕事の魅力について教えてください。

1972年9月、周恩来首相と会見する自民党訪中同行記者団(前列右から2人目が小池氏)

 歴史的な出来事を間近で目撃できるのが、新聞記者としての醍醐味(だいごみ)です。私の場合は、毎日新聞に入社してから地方の支局勤務を経て、念願だった政治部に異動しました。その中で特に記憶に残っているのが、外務省担当キャップだった1972年に取材した日中国交正常化交渉です。田中角栄・周恩来両首相による日中トップ会談直前の自民党訪中団に、私は記者団団長として同行しました。小坂善太郎元外相と周首相による会談には記者も同席が許され、私の目の前で周首相が「小異を残して大同につく」という有名な言葉を口にします。その直後の田中首相訪中にも同行し、日航機の中で国交正常化に関する話を首相から直接聞くことができました。

 佐藤内閣での沖縄返還に関する一連の出来事も印象的です。協定交渉に絡んだ「外務省機密漏えい事件」では、同期入社だった西山太吉記者が逮捕され、私は直接事件の取材に当たりましたし、毎日新聞による核密約スクープには政治部長として携わりました。新聞記者はまさに“歴史の生き証人”となる職業なのだと思います。

 また、こうした外交関係の取材で役に立ったのが、大学時代に学んだ国際政治の現実主義的な理論です。外交や政策がどのように展開されるのかを考え、取材する上で大変参考になりました。

覚悟がなければトップは務まらない

――その後、社内で重要なポストを歴任されますが、記者時代と違ったご苦労があったのではないでしょうか?

 常務取締役主筆を務めた時は、解職や降格と満身創痍(そうい)の状態でした。発端は、昭和天皇のご病状が重篤なときに英文毎日が起こしたミスでした。用意していたエディトリアル(社説)のご逝去予定稿を、手違いで掲載してしまった。当然、社会的な問題になり、私は直ちに辞表を提出しました。

 毎日新聞には「主筆は筆政のすべてを司る」という編集綱領があり、編集の最終責任は、社長ではなく主筆が負うのです。だから「辞職は当然」と考えました。ただ温情なのか、辞表は退けられました。降格を経験した私がその後社長に選任されたのは、皆が主筆時代の私の行動をよく見ていて、責任感や使命感といったものを感じとってくれたからかもしれません。いずれにせよ、責任ある立場で大事なのは出処進退だと私は考えています。

 社長に就任した後も大変でした。ちょうどその頃、サンデー毎日ではオウム真理教の追及キャンペーンを張っていて、社には教団関係者が頻繁に抗議に訪れていました。毎日本社の地下爆破計画も、後の裁判で明らかになります。自宅には警察の厳戒態勢が取られ、私自身も防弾チョッキを身に着け、家族には緊急時に助けを呼ぶための防犯笛が渡されていました。

 新聞社の社長というのは、さまざまな団体から攻撃されます。社会の公器である新聞社において、それなりの覚悟がなければトップは務まりません。

――本学の「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」選考委員を長年お務めいただきました。

 吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作と官僚出身の首相が多かった中、石橋湛山はジャーナリスト出身。自由主義にもとづく論陣を張り、時代の風潮におもねることなく反戦反軍思想、小日本主義を唱えた気骨の人です。その名を冠した賞をどんな作品に授与すべきか、選考委員の中で随分議論しました。賞創設10年を経て、湛山の名にふさわしい大きな賞に育ってきたと思います。

――本学での講演会では、男子学生からも積極的に質問が出ていましたが、本学の学生に対する印象はいかがでしたか。

 とても真剣に聴いてくれて反応もよく、話したことがス~ッと吸い込まれていくようでした。非常に優秀だなという気がしましたし、質問も的確でレベルが高かったですね。

――最後に、大学や学生に向けて何かメッセージはありますか。

 早稲田大学では、大隈重信にまでさかのぼる在野精神が脈々と受け継がれてきました。権力の監視は、まさにジャーナリズムの役割です。それが言論界に多くの人材を輩出してきた要因であることは言うまでもありません。これからもそうした“早稲田らしさ”は前面に出していってもらいたいと思います。私がジャーナリズム大賞の選考委員を務めてきたのも、そうした思いからです。

 また、パ・リーグの会長を務めた立場から申し上げますと、プロ野球界に期待される新人を送り込んでもらいたい。今年は箱根駅伝で優勝するなど、早稲田のスポーツが元気なのは喜ばしいことです。過去を振り返っても、スポーツに元気がないときは、大学全体も活気がありませんでした。今後もスポーツの活性化に力を注いでほしいと思います。

 学生の皆さんには、物事の原理原則をきちんと学んでほしい。「騒ぐことはいつでもできる」のですから。私は政治学を勉強しましたが、文学でも法学でも、基礎を学ぶことの重要性は同じです。生きていく上で基本となるような知識を、在学中にしっかり身に付けてください。

小池 唯夫(こいけ・ただお)さん/毎日新聞社顧問

1932年生まれ。1956年早稲田大学政治経済学部を卒業し、毎日新聞社に入社。支局勤務を経て政治部に配属。政治部長や東京本社編集局長、論説委員長、主筆などを歴任し、1992年代表取締役社長、1999年代表取締役会長(~2001年)。1995~99年日本新聞協会会長。2001~09年パシフィック野球連盟会長としてプレーオフ制を導入するなどリーグ活性化に尽力。2001~11年石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞選考委員を務める。