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▼錦秋号

第二世紀へのメッセージ

豊歳 直之さん 略歴はこちらから

海の向こうに行ってみたい。好奇心のまま突き進んだ人生。

豊歳 直之さん/駐日パラグアイ共和国特命全権大使

 日本で生まれ育った日系一世にも関わらず、豊歳直之さんは今、パラグアイ共和国の全権大使を務められています。これは、豊歳さんが現地で勝ち得た信頼があればこその異例の抜擢。
 波瀾万丈の道のりをひもとくとともに、本学へのメッセージをいただきました。

人脈を探し、南米行きを実現

――学部時代の思い出をお聞かせください。

 楽しくて、いい思い出ばかりです。同級生の友達といっしょに、麻雀や囲碁をしたり、旅行に行ったりしていました。その中で、今となって重要だったと思うのは、新宿の紀伊國屋書店で、平凡社の『世界地理体系 中南米編』という本に巡り会ったことです。当時の日本は戦後間もない貧しい時代。写真入りで掲載されていた中南米の豊かな国々に、強い憧れを抱きました。

――南米行きを実行に移された経緯を教えてください。

 何としても中南米に行ってみたいと思っていたのですが、当時の海外移住は狭き門です。大学の移住研究会に入って先例を見たところ、方法は集団計画移住に参加するか、現地の日系人に呼び寄せてもらうかという、2つしかありませんでした。しかも、東京出身で農業経験のない私には集団計画移住で農業をすることは考えられず、残る道は1つです。年に一度開かれる、海外日系人協会の集まりへ行き、呼び寄せてくれる人を探しました。

アルゼンチンに渡った時のパスポート、職業欄は「エンジニア」

 その集まりで出会った現地企業の方には結局断られてしまったのですが、それでもあきらめきれませんでした。その後も、大阪商船で働きつつ、その方と定期的に連絡をとり続けました。そして、社会人になって2年が経った頃、その方が勤める現地企業の社長にお会いする機会があり、やっと呼び寄せる承諾をいただくことができたのです。

 ただし、何の技術ももたない人では難しいという社長の指示により、まず3カ月間日本の鳴海製陶という会社で研修をすることになりました。そのため、渡航の際、私のパスポートの職業欄には「エンジニア」という肩書きがつきました。技術者としてアルゼンチンへ行くことになったのです。

計画は大胆に、実行は着実に

――渡航後はどのような仕事をされたのですか。

 アルゼンチンでは約9年間、おもちゃや陶磁器をもってセールスをしました。しかし、ある日パラグアイ行きの水上機を見たとたん、向こうはどんな国なんだろうと行きたくなってしまいました。そうなると、いてもたってもいられません。その場に商品を詰め込んだかばんを置き、次の便でパラグアイへ。そうしたら、どの人も温かく、パラグアイハープの音色も美しくて、すばらしい国。すっかり気に入ってしまい、この国で仕事がしたいと会社を説得して、パラグアイでホンダの二輪車の輸入販売を行う仕事を始めました。

 そのうちに現地にたくさん友達ができたこともあって、一大決心をしてパラグアイに移住しました。友達といっしょに、ホンダの自動車の輸入販売の会社を設立することにしたのです。その後、トヨタ車の輸入販売を始めてからは、経営を軌道に乗せることができました。

――すばらしい行動力ですね。

 行動の原点は好奇心です。新しい世界が向こうにあると思えば、どうにかして行ってみたい、と思います。パラグアイで会社を立ち上げた後も基本は変わりません。うちの次男がアメリカの大学へ進学したときに会いに行ったついでに立ち寄ったカナダの街が好きになり、そこに通うためにグループ会社をつくったということもありました。

――会社経営の成功の秘訣はありますか。

 信頼はとても大切です。アルゼンチンにいた時、商社といっしょに現地の鯛を日本に送って販売する仕事を手掛けたことがあります。日本のお正月に間に合わせるには、現地の海が荒れる8月に漁をしなければいけません。地元漁師に頼み込んで鯛を集め、なんとか輸出しました。ところが、結局その鯛は色が悪いと言われ、商社にお金を払ってもらえませんでした。現地ではそのようなとき、漁師や冷凍業者にお金を支払わない人もいるようでしたが、私はそれまでの全財産をはたいて払いました。大打撃ではありましたが、それによって、地元の方から「あいつは信頼できる」と思っていただけるようになりました。次につながる失敗だったと思っています。

 また、車の販売の際は月賦払いで、お客様がきちんと期日通りに支払ってもらえないこともよくありました。しかし、私は銀行に借金があったので、返済は毎月の期日通り行わなければいけません。必死でかけずり回ってお金を集め、確実に返済することを心掛けました。そのおかげで銀行もまたお金を貸してくれるようになり、会社の成長の基盤となりました。事業を計画するときには大きな夢を描くことが大切ですが、いざそれを実行するという段階では着実にこなして周りの信頼を得なければいけません。

国際交流の場として、さらなる発展を

ご自身が運営する日本パラグアイ学院の前で

――その後、なぜ全権大使に就任されることになったのですか。

 パラグアイの大統領から熱心に依頼されたからです。最初にその話をいただいた時は、外交の経験がなく、何よりゴルフが好きなだけできる今の生活を続けたいと断ったんです。しかし、大統領は日本地図を手に、再びやってきました。そして、「日本にはこんなにゴルフ場があるぞ」と言うんです(笑)。その熱意に負け、引き受けることにしました。今はパラグアイ、ひいては日本の架け橋となるべく活動しています。

――これからの早稲田大学に期待することは何ですか?

 期待するのは、国際交流の場としてさらなる発展を遂げることです。私はパラグアイの各界の指導者を育成するために、現地で日本パラグアイ学院という小中高一貫校を運営していますが、ここの卒業生には、ぜひ早稲田大学など海外の学校で学んでほしいと考えています。また、一方で日本の学生の皆さんにも、大学で各国の学生と出会い、海外に興味をもってほしいと思います。そして、もちろん興味のある国には、実際に行ってみることが大切。いくら通信やメディアが発達したとしても、行ってみなければわからないことはたくさんあるはずです。

 特に中南米の各国はいずれも豊かな資源をもち、著しい経済成長を遂げている可能性にあふれた国です。将来はグローバル経済において存在感を増し、日本のビジネスパートナーとして、より重要になってくるはずです。そのような意味でも、今中南米に目を向けることはとても大切。学生の皆さんには、ぜひ中南米、とりわけパラグアイへ一度行ってみてほしいと思います。

豊歳 直之(とよとし・なおゆき)さん/駐日パラグアイ共和国特命全権大使

1936年生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1958年、大阪商船入社。1960年、アルゼンチンに渡り、S.Tsuji SA入社。1969年、パラグアイに移住し、Toyotoshi SA(自動車輸入販売会社)設立。その後、パラグアイ共和国で河川運輸、牧畜、携帯電話オペレーション、自動車用皮シート製造などの多角的な事業を展開。また、フランス、カナダにも自動車輸入販売会社を設立して、Toyotoshi グループを築く。2009年より現職。