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キャンパスナウ

▼2016 早春号

研究最前線 frontline of the study

社会に貢献する最新の研究を取り上げて紹介します。

野口 晴子
政治経済学術院教授
略歴はこちらから

人の幸せに直結する“健康”と社会経済的属性の関わりを研究

野口 晴子/政治経済学術院教授

N.Y.で実感した日米の医療制度の違い

2012年11月、グローバルエイジングに関する筑波大学との共同研究プロジェクトのフィールド調査でバングラデシュを訪問

 医療経済学というと、医療制度や医療費について研究する学問ですか?と言われることがよくあります。私がこの分野に進むきっかけになったのも、医療制度への関心からでした。ニューヨーク市立大学の博士課程時代、当時は大学の附属であったマウントサイナイ医科大学でリサーチアシスタントをしていたのですが、ER(救急救命センター)の受付で、重傷を負ったり、病気が重くなったりした状態で運び込まれてくる10代の患者や家族に対して、「保険に加入しているか?」とたずね、加入していない場合は受け入れを断るという場面にしばしば遭遇し、衝撃を受けたことを今でもよく覚えています。他方、同じ時期に、私の父が食道癌で入院し手術を受けたのですが、日本は国民皆保険制度が完備されており、患者の医療費は1割負担。そのおかげで父は、当時の食道癌の最長生存期間であった術後5年間を過ごし、亡くなりました。医療制度や医療政策のあり方によって、人の命の扱いが大きく変わることを身をもって体験したことがきっかけで、医療経済学のパイオニアであるマイケル・グロスマン教授のもとで、研究を始めました。

2015年11月、世界における人口の高齢化問題を中心に活動を行う、タイ・チェンマイを拠点とするNGO団体Help Ageを表敬訪問

2015年1月、JICAとタイ保健局との要介護高齢者の在宅支援に関する共同プロジェクトのフィールド調査でタイを訪問

出生体重とその後の人生

2500g以下の低体重で産まれる子どもの推移。日本だけが伸び続けている

 医療費の問題は、医療経済学におけるメインテーマの一つではありますが、対象となるイシューはより広範囲に及びます。医療経済学は、例えば、人の健康と社会経済的属性(教育、所得、家族関係など)には相関があり、どういった要因がどの程度健康に影響を与えるのかといった問題も分析対象となります。

 最近、私が関心をもった研究テーマとしては、出生体重とその後の学業成績や学歴、就業状況や賃金などの関連性があります。日本では昨今、出産時のリスクを回避するために「小さく生んで大きく育てよう」と声高に叫ばれることもありました。また最近は、女性のライフスタイルが変化し、とりわけ、若い母親が自分の体型を気にかけるあまり、妊娠後の体重を厳格にコントロールするなど、さまざまな要因によって、日本における出生体重の平均値は、先進国の中で唯一減少する傾向にあります。しかし、海外の研究などでは、出生体重が軽いことが、学歴や賃金など、その後の人的資本(human capital)にマイナスの影響がある確率が高いことが指摘されています。人的資本は、仕事や生活のために必要とされる情報の収集・分析能力、体力や精神力に影響を与える可能性があるため、ひいては、社会における格差の拡大や労働の生産性の低下をもたらすかもしれません。そうしたことから、2006年以降、厚生労働省も低体重妊婦に対する体重増加の指導を行っています。

※ 知識や技能など、蓄積可能な人間の能力を「資本」として捉えた経済学の概念

政策のために実証データを蓄積することの重要性

7対1病床の病院数の推移

看護師配置の地域間格差

 2013年以降、私は中央社会保険医療協議会(以下、中医協)の公益委員を務めています。日本では、各医療サービスの価格を政府がコントロールする公定価格制度がとられています。中医協では、医療サービスの需要者である患者と保険者(支払側)、そして、供給者である診療側が協議を重ね、医療サービスの価格である診療報酬点数を2年に1回改定しています。公益委員の役割は、その名のとおり公益の視点に立って、利益者団体の意見が分かれた場合に客観的な立場で決断を下さなければなりません。

 中医協での経験は、医療サービスの価格弾力性の重要性を私に改めて気づかせてくれました。価格弾力性とは、価格の変化に対する需要と供給がどのくらい反応するか、その大きさを示します。例えば、2006年の診療報酬改定で、患者に対する看護師の配置が最も手厚い7対1病床(看護師1人当たりの患者数が7人)の点数を大幅に高く改定したところ、数多くの病院が7対1病床への転換を図りました。その結果、北海道では札幌の大規模病院が看護師を大量に雇用したため、僻地の病院が看護師不足に陥ってしまいました。本来であれば、高齢人口が増えている僻地において、日常的なケアを提供する在宅医療を充実させなければならないのに、そのための労働力が都市に集中してしまったのです。こうした事態を受けて、2014年の改定では、7対1病床の点数を大幅に下げ、7対1病床を減らす方向へと供給者を動機づけようとしています。あらかじめ、価格に対する供給者のインセンティブの大きさを予見できていれば、改定におけるこうした右往左往も多少は回避できるのではないでしょうか。

客観的な根拠に基づいた政策立案に挑戦

 私自身の研究を通じて取り組んでいるのは、客観的根拠に基づいた政策立案と政策評価です。これは、私のライフワークであると考えています。これまで日本では、政策のために、データを検証する慣習がなく政治家や官僚の直観と経験に頼ることが多く、政策が人々の反応を見誤ることがありました。やっと最近になって、エビデンスを政策の基盤とすることの重要性が認識されつつあります。国民皆保険制度を持続可能なものにするため、どうすればそれぞれの医療サービスの診療報酬点数を適正化することができるのか、経済学者として、根拠に基づく提案をこれからもしていかなければなりません。例えば、2001年に米国での経験に基づきレセプトデータの電子化について小論を書いたのですが、10年にも及ぶ多くの人々の努力が実り、日本でも全国的なレセプトデータの電子化と集積が開始され、政策エビデンスを作る土台作りが始まりました。これからは人材育成も重要な鍵となるでしょう。政治学研究科・公共経営専攻は、地方公務員のリカレント教育の場にもなっていますが、彼らがデータの検証方法を学び、職場に戻ることによって、自治体が客観的根拠に基づいた政策の立案や評価をするきっかけとなるかもしれません。

 現在の研究のベースになっているのは、2014年に政治経済学術院に発足した実証政治経済学研究拠点です。同学術院の専任教員を中心に構成されていますが、学術院内外の若手研究者や大学院生も研究協力者として参加しています。ワークショップやシンポジウムに、国内外から第一線で活躍する研究者を招いたり、また、査読付き英語論文を3年間で50本以上など、具体的な数値目標を自分たちに課したり、精力的に研究活動を行っています。ディスカッションルームで開かれる「Everyday Brawn bag(昼食会)」では、互いの研究について活発な意見交換を行っています。

 将来、医療政策に対するフィールド実験が何らかの形でできればと思っています。無作為抽出化試験によるフィールド実験は、見せかけの相関に対処し因果関係を明らかにするためにも必要なツールです。来年、本学で開催される医療経済学会に、世界銀行のフィールド実験の第一人者を招聘するなどして、働きかけていきます。

 今後も、健康という人々の幸せに直結する重要なテーマを扱っているという自覚を持ちながら、現実社会と真摯に向き合い、医療経済学を日本の社会に役立てていきたいと考えています。

野口 晴子(のぐち・はるこ)/政治経済学術院教授

1988年早稲田大学政治経済学部卒業、1990年同大学経済学研究科修士課程修了、1997年ニューヨーク市立大学経済学研究科博士課程修了(PhD in Economics)。スタンフォード大学・全米経済研究所(NBER)研究員を経て、2000年に帰国。帰国後、東洋英和女学院大学、国立社会保障・人口問題研究所を経て、2012年より現職。American Economic Review、Lancet他、論文多数。