和洋学園の創設者堀越千代は、幕末の安政6年生まれ。明治維新後、故郷の岩手県から上京し、夫となる堀越修一郎に出会います。熱心な教育者である修一郎の影響を受けた千代は、習字、国文学、漢文学、礼法などに加えて、当時は珍しい洋裁技術なども学び、当時の女性としては抜きんでた教養を身に付けていたといわれています。学びから得た深い教養を糧に、明治30年に設立したのが、和洋女子大学の前身となる和洋裁縫女学院です。

創立以来、和洋学園は時代とともに変化してまいりました。近年では、平成30年に看護学部を設置し、より実学的な学びに取り組める総合大学としての環境を整備しました。また、令和2年には、高校・大学一貫の7年制教育を行う和洋コースを設置。時間をかけて深い学びを得られる学習機会の創出に取り組んでいます。
いつの時代も根幹にあるのは、堀越千代が唱えた「豊かな教養と専門的な知識・技術を兼ね備えた自立した社会人の育成」です。これからも、時代に即した女子教育を実践しながら、社会で自分らしく活躍できる自立した女性の育成に取り組んでまいります。





戊辰戦争で戦い、のちに教育にも携わることとなった新島八重の生き方には、女性が自らの力で未来を拓くために必要な、3つのポイントがあると思います。
1つめが、知識と技術を養い、それを行動に移す勇気があったこと。会津藩の砲術師範の家に生まれた八重は、武家の子弟に撃ち方を教えるほど、砲術の知識と技術を深めていました。戊辰戦争の際には、身につけた能力を総動員し、勇気を持って、女性でただ一人銃を手に戦いに挑んだのです。
2つめのポイントは、変化を恐れない姿勢です。八重は既存の価値観にとどまることなく、知識や考えをアップデートしながら、時代の最先端を歩んでいきました。
かつては銃を手に戦った八重ですが、戦後は、兄の山本覚馬や二番目の夫・新島襄の西洋的な考えに触れ、英語や聖書など新しい知識を学んでいきます。良いものは積極的に取り入れ吸収する、柔軟性があったのです。
3つめは、生涯行動し続けたこと。最愛の夫・襄の死後、女性の社会貢献の道を模索した八重が見いだしたのは、篤志看護婦の道でした。若い看護婦を率いて従軍し、知識と技術と勇気で、傷病兵の看護に奔走したのです。自らの力を自分のためだけでなく、他者のために使う努力も、八重は惜しみませんでした。
学ぶことをやめず、人のために尽力し続け、「ハンサムウーマン」と称された八重の生き方は、私たちが目指すべき自立した女性の姿といえます。




激動の時代といわれる明治時代ですが、それは社会での女性の立ち位置も同じです。
明治の前半、適性を生かして社会貢献したいという高い志を持つ女性が増え、多くのメディアが女性の社会進出について取り上げるようになりました。結婚後も仕事を続ける女性や子連れ出勤する女性が記事になり、その書きぶりからも、結婚と仕事の両立に寛容であったことが分かります。
女性の社会進出に伴い、女子教育も促進されます。和洋学園創設者の堀越千代や、津田塾大学創設者の津田梅子をはじめ、多くの女性が、女性の学びの拡充のために力を注ぎました。
しかし明治の後半になると、様相が変化します。明治32年、良妻賢母を唱えた高等女学校令が制定され、次第に女性の活動が家庭内のみに制限されていきます。女子教育が拡充しながらも、同時に女性の役割が限定されてゆくことの矛盾に、内心、とまどう女性も、多かったことでしょう。
驚くべきことに、その固定観念はいまだに根強く残っているのです。共働き家庭が増えているにもかかわらず、日本のジェンダーギャップ指数が、近年、国際比較上低下しており、政治等での女性参画が進まないのはその反映です。
この状況を打開し、真の女性活躍を実現するための鍵、それこそが明治初期の女性が持っていた、自らの能力で社会に貢献しようという志なのです。