子ども記者がまず足を運んだのは、東日本大震災で津波にのまれた宮城県名取市閖上地区だ。閖上は昨年も同プロジェクトで訪れた場所。海沿いに向かう途中、一行を乗せたバスはかさ上げされた土地の上を走る。
復興のシンボル・朝市でにぎわう「メイプル館」では、朝市協同組合の櫻井広行さん(62)が「すぐ逃げれば地区の全員が助かったはず。自分の命は自分で守るしかない」と、支援の恩返しに全国を巡って防災意識の大切さを訴えていると説明。記者と一緒に、犠牲者944人の慰霊碑や地区を一望する日和山を巡った。日和山から見る風景は、1年前とあまり変わらない印象を受けた。しかし、水産加工団地が完成、戸建ての災害公営住宅の入居が始まるなど、街は復興に向けて少しずつ動き出している。
仙台市宮城野区に昨年完成した「津波避難タワー」(約10メートル)では、市職員の福来勝さん(49)が、300人が避難できると説明。屋上までのスロープを設置し、高齢者や車いすの避難者にも対応できるようになっている。子ども記者は、簡易トイレを組み立てたり、防災行政無線機で災害対策本部と話をするなど、「その日」を疑似体験した。
【津波避難タワー】
仙台市では、東日本大震災を教訓に海岸防災林やかさ上げ道路による津波の減災対策とともに、津波の際にも円滑に避難するための津波避難タワーを市内に整備。高齢者のため広めのトイレ空間の確保やベンチを設置し、非常時のストレスを和らげるため、間仕切りするなど工夫している。
次に一行は、津波被害だけではなく、原発事故による風評被害を受け、「食」の魅力発信に取り組む相馬市の人々を訪ねた。
被災前は観光客でにぎわった原釜尾浜海水浴場には静かに波音が響く。海岸に近い「伝承鎮魂祈念館」では、地元産品の詰め合わせを全国発送している学生団体「trees(ツリーズ)」の深谷華さん(20)、県外から移住してボランティアに取り組む復興支援センター「MIRAI(ミライ)」の黒田夏貴さん(32)と交流。深谷さんは農家の取材リポートを一緒に発送しており、「風評に負けずに頑張る生産者の熱い思いも伝えたい」と意気込んだ。
自然農法で養鶏に取り組む菊地将兵さん(30)の農場では、自家製野菜で伸び伸び育つニワトリへの餌やりを体験。周囲の反対を押し切り、震災後にUターン就農した理由を「他県と同じような農産物では福島産は売れにくい。それなら、ここにしかない物を生み出したい」と力強く語った。この鶏卵は常に完売する人気で、treesも扱っている。
福島第一原発事故で出た放射性物質を減らすため、今も各地で続く除染作業。福島市の「除染情報プラザ」で、専門家から基礎知識を学んだ。
アドバイザーの青木仁さん(64)は放射性物質の中には自然に半減するのに30年かかるものもあると話し、「安心して生活できるよう、頑張って人間の力で減らさないと」と力を込めた。民家の模型を使って、1軒ずつ屋根や溝を掃除する除染の手順を教わり、子ども記者たちは今も地道に続く作業に驚いた様子だった。
東京電力ホールディングス福島復興本社の田添邦彦さん(48)は、どのように事故が起きたかと、30〜40年続く廃炉の工程を解説した。
2日目は、「福島の復興を担う人材の育成」を目標とし2015年に開校した福島県立ふたば未来学園高校(広野町)を訪問。同校の総合学習棟や寄宿舎などを仮設として建設した大和リースの井上伸一さんから話を聞いた後、復興に向けた独自の活動に取り組んでいる「社会起業部」の生徒らと交流した。
部を代表し、2年松本彩華さんがクイズ形式で福島の現状を紹介。「昨年の放射能検査で、安全でなかった米は何袋か」(答えはゼロ)、「帰還困難区域は福島県全体の面積の何%か」(答えは2.4%)といった設問を通じ、安全・安心に関する「誤解」払拭に努めた。
子ども記者からは「将来の進路や行きたい所は」「震災で自分は変わったか」など質問が次々とぶつけられた。
原発事故で避難した川内村出身の2年古内伸幸さんは「自然の力で発電する再生可能エネルギーを学ぶため、ドイツに行きたい」と答え、1年林優弥さんは「地元の人のために、役に立てる大人になりたい」と夢を語った。震災後の自らの変化について、1年遠藤陽祐さんは「人見知りが激しかったが、避難生活で友達を作るため、自分から人に話しかけるようになった」と明かした。
最後の訪問地は、震災がれきなどで海岸沿いに造った高台「千年希望の丘」(宮城県岩沼市)。そこで植林活動をしている「鎮守の森のプロジェクト」の西野文貴さん(28)は「震災の津波に耐えたシイやタブで森を造れば、自然の力で減災ができる」と説明。密着して植えることで競争させ、成長を促していると聞いた子ども記者たちは、力強く育ち始めた木の感触を確かめていた。
被災地に到着すると、見渡す限りの海岸で造成工事が進んでいた。移動中の車窓から望む「復興」は、どこかひとごとにみえる。だが、子ども記者は農家や高校を訪ね、被災者の生の言葉に触れると、復興の歩みを徐々に実感していったようだ。
「古里から逃げたくないから、ここにしかない物を生み出す」。風評被害に苦しむ福島で震災後、就農した菊地さんはこう語っていた。高校生、NPO、東電関係者らの、復興にかける「決意」に触れる旅だった。
神戸周辺から集まった子ども記者は、阪神大震災を知らない世代だ。防災の日を機に、地元の人がどんな覚悟で暮らしや街を再建したのか、考えてみてほしい。
私は、熊本地震直後の被災地を思い出した。4か月前、益城町で途方に暮れていたあの人はどうしているだろう。一歩を踏み出す様子を取材しに、再訪したいと思った。
(上田貴夫)
原爆死没者を静かに追悼し、平和について思い巡らす空間。壁面は、爆心地である旧「島病院」付近から見た被爆後の街並みを、昭和20年(1945年)末までの死没者数と同数のタイルを用いてパノラマで表現している。
ボランティアによる被爆体験記朗読会に参加。「忘れたい体験を伝えてくれた方の思いを受けて、どうしたら戦争がなくなるか、考える力にしてほしい」との話に気を引き締める。
祈念館が所蔵する被爆者の証言ビデオや13万編を超える体験記などが閲覧・視聴できる。
ご遺族より収集した原爆死没者の氏名・遺影が大型モニターで順次映し出され、一巡するのに3時間。登録は現在2万人を超えている。
仙台空港から北へバスで約3時間半。最初に訪れたのは、市内の約8割が津波で水没した岩手県南部の陸前高田市だ。海沿いの松林約7万本のうち1本だけが残った「奇跡の一本松」、高台造成の土砂を運ぶ巨大ベルトコンベヤー「希望のかけ橋」などを見学した。
案内した市観光物産協会副会長の實吉義正さんは「昔から何度も津波に襲われたのに、高さ5メートルの防潮堤ができて皆が安心してしまったことが被害を大きくした」と説明。犠牲者を1人も出さなかった気仙中学の女性校長を「避難は一刻を争う。保護者の到着を待つよう求めた市教委マニュアルを無視したのがすばらしかった」とたたえた。
このあと一行は、900年の伝統を持つ「気仙町けんか七夕まつり」の会場に移動。まつり保存会の河野和義会長は、「津波で残った山車は1基だけ。ぶつかり合ってこそ、と2基目を作れたのは全国からの寄付のおかげ。人の情けや助け合うことの大切さを学んだ」と涙ながらに話した。
夜に太鼓の音と歓声が交錯するなか、子どもたちは2基が激しくぶつかるさまを見、綱を引いて走った。
2日目に訪れた気仙沼市は、全国有数のカツオの水揚げ高やフカヒレの産地として有名。一行は、気仙沼漁港隣のシャークミュージアムで、復興を目指す取り組みの映像や展示を見、佐藤亮輔・漁協組合長にインタビューした。佐藤さんは、「(震災直後の)3月20日の会合で(漁港の)6月再開を断言し、皆の心が一つになった。目標に向かって結束することが大きな力を生む」と述べた。
続いて、地元出身のシンガー・ソングライター熊谷育美さんのスペシャルライブに飛び入り。熊谷さんは集まった約150人に自身の被災体験を紹介し、阪神大震災の復興ソング「しあわせ運べるように」を10人と一緒に歌った。
町民の約半数が一時、行方不明とされた南三陸町。復興の歩みは遅く、住宅地も草木の緑以外は土色だ。町出身の語り部で東北福祉大1年の三浦貴裕さんが、職員43人が犠牲になった町防災対策庁舎、チリ地震の後で同国から町に贈られたモアイ像、母校の戸倉中学などを案内。防災対策庁舎前では全員が黙とうをささげた。
三浦さんは震災発生時、戸倉中2年で校舎にいた。「津波が来たのは地震の約40分後。言われるまま必死で山に逃げ、後ろを見ると校庭で車が濁流に巻かれていた。体育館に逃げていたら全員死んでいた。災害時にはまず自分を守ることが大切」と話した。
最終日は、仙台空港のある名取市で最も被害の大きかった閖上地区へ。漁港の朝市を見学した後、復興のためソバの増産や震災語り部などの活動を続けてきた宮城県農業高校3年生5人との交流会に臨んだ。
自己紹介に続き、5人は子どもたちの質問に「被災後は水や電灯を常備している」「身近な人を亡くしたのはつらいが、人と触れ合える大切さを実感できるのは幸せ」などと回答。
高校生からは、「神戸と比べて復興の度合いは」などと保護者への質問があり、「やはり遅れている。国はもっと力を入れてほしい」などの答えが聞かれた。
この後、一行は、頂上まで津波にのまれた日和山などを訪れ、震災前の風景を眼前のそれと同時に復元できる眼鏡型端末「AR(拡張現実)グラス」をかけて地域の変化を実感。仮設魚市場で、宮城県漁協仙南支所の出雲浩行さんや施設を整備した大和リースの森中哲也さんから話を聞いた。
「自分の命は自分で守る」。3日間でこの言葉を何度聞いただろう。家族や友人を気遣って逃げ遅れた無数の犠牲者がいた。優しい人ほど命を落とす悲劇を繰り返すまい、という被災地の強い思いが伝わってきた。
自身も妹を亡くした陸前高田市の實吉さんは、犠牲になった児童の大半が保護者と車で逃げる途中、渋滞に巻き込まれていたと指摘した。子どもの前では言えなかったが、窒息死ほど残酷なものはないという。その夜、「震災が来ても学校には迎えに行かない。自分で逃げるよう言い聞かせた」とある保護者が教えてくれた。
南三陸町の三浦さん、名取市の農業高校生ら、若い世代の「語り部」には頼もしさを感じた。三浦さんは救急救命士を目指すという。高校生たちが復興の手立てを次々に考案し、企業の支援も得てARグラスなどに結実したことを、子どもたちは身近な手本として受け止めたようだった。
阪神大震災が起きた20年前、高知支局員だった私は、神戸の最も悲惨だった瞬間を実際に見たことがない。しかし、4年半が過ぎても各地に爪痕が残る惨状に接して、遠からず起きる大震災を考えた。自分には果たして何ができるのか。そして、読者の皆さんは?
(石塚直人)
12月1日(火)に、小中学生らがISSの油井亀美也JAXA宇宙飛行士とリアルタイムで交信するイベント「宇宙の油井飛行士と話そう 未来へ紡ぐリレープロジェクト」が京都産業大学・神山ホール(京都市北区)とバンドー神戸青少年科学館(神戸市中央区)の2会場で開かれ、約700人が参加しました。油井さんの仕事や、宇宙で開発された技術が私たちの暮らしにどう役立っているかなどについての解説を聞いた後、交信がスタート。宇宙と中継がつながると、会場はどよめき、子どもたちが次々と油井さんに質問。油井さんは質問者に呼びかけながら、一つひとつの質問にていねいに答えてくれ、子どもたちも大感激。交信の最後には、2会場そろってエールを送り、はるか宇宙に思いを届けました。事前に京都産業大学・神山天文台で実施したワークショップの模様と合わせて、リポートします。
交信は神戸会場、京都会場の順に、各会場で選ばれた子どもたちが2人1組で質問しました。子どもたちにとって忘れることのできない20分間となりました。
宇宙で見る星はどんなですか 轟 純之助くん(小4) / 戸取 俊介くん(小6) |
周りが暗いので多くの星がきれいに明るく見えます。空気がないので星は瞬きません。 |
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宇宙に持ってくればよかったものは 小林 真子さん(小6) / 樫原 匠くん(小5) |
無重力空間ではいろんなものが飛び散ります。切った爪が飛ばない吸い込み式の爪切りがあれば便利。 |
宇宙に匂いはありますか 猪爪 雅斗くん(小5) / 中村 輝くん(中1) |
ISS内では空気を循環させてフィルターで浄化しているため、匂いは気になりません。 |
宇宙で一番の感動は 竹中 詩穂さん(中3) / 竹中 美結さん(小6) |
地球の美しさに感動します。宇宙で見る地球は小さくて、大切にしなければと思います。 |
運動が苦手でも宇宙飛行士になれますか 丸尾 峻也くん(小6) / 平野 優樹くん(小4) |
私自身、運動は得意ではありません。球技でも陸上でも、好きな分野を見つけて頑張れば、宇宙飛行士の道が近づくでしょう。 |
宇宙酔いしますか 山﨑 美渚さん(中2) / 山﨑 悠揮くん(小6) |
ISSは約90分で地球を一周します。最初は速さに驚くけれど、慣れれば大丈夫です。 |
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宇宙で生活リズムをどのように調整しますか 西村 陽太朗くん(小5) / 西村 奏人くん(小4) |
ISSでは約90分に一度、日の出と日没が巡るため、我々は世界標準時に合わせて生活しています。 |
無重力はどんな感じですか 森野 優陽くん(小4) / 萩山 華さん(小5) |
無重力では上も下もなく、体が浮いて快適です。ボールを投げると落ちずにまっすぐ進みます。無重力でのいろんな実験もしています。 |
宇宙で一番の楽しみは 上田 晃雅くん(小6) / 小尻 晃也くん(小4) |
地球や星の写真を撮ることです。感動を分かち合おうと、ネットやツイッターで紹介しています。 |
宇宙から日本は見えますか 松本 誠太郎くん(小5) / 田中 滉力くん(中3) |
地図で見る形通りなので、すぐ分かります。それぞれの都市を撮影するときは、地図で形や位置を下調べしています。 |
ISSで掃除はしますか 関川 毅くん(小5) |
週に一度、分担して各所を掃除します。浄化用のフィルターをきれいにしたり、ふき掃除したり、時間をかけてやっています。 |
レタスの成長は地上と比べてどうですか (司会より) |
成長は早いですね。ISS内は二酸化炭素濃度が地球の10倍以上なので、植物が育ちやすいのかもしれません。 |
無重力でも重さは感じますか 竹中 慶一さん(京都産業大学4年) |
質量は感じます。同じ大きさの重い箱と軽い箱を同じ力で押すと、重い箱はゆっくり進み、軽い箱は速く進みます。 |
昨年11月22日、油井さんと交信する子どもたちを対象に京都産業大学・神山天文台でワークショップを実施。河北秀世天文台長が、天文台の役割について実験を交え解説したあと、私立大学では国内最大の「荒木望遠鏡」(口径1.3m)を見学しました。
天文台の仕事といえば、ずっと望遠鏡をのぞいているイメージがあると思いますが、それだけではありません。私たちは望遠鏡で集めた星の光を分析する技術を開発しています。七色の虹のように、光を分ける「分光器」という装置を用いて、研究に活用しています。
中でも「赤外線」が重要です。活用次第でこれまで見えなかった星が見えたり、星やガス・塵の温度が分かったり、また今後、産業・医療等への活用も期待されている分野です。
しかし光を多くの色に分けるには分光器自体が大型化し、製作が困難になっていました。本学では企業と共同で、赤外線を10万色以上に分け、小型化が可能な技術を世界で初めて研究開発しました。今後は、小型化によって高性能な分光器を実現し、望遠鏡の観測性能が向上することで、星や宇宙の謎の解明が進むと期待されています。
ISSは、地球から高度約400キロ上空を秒速8キロで回り続ける有人宇宙施設です。そこで行われる様々な実験や宇宙飛行士の体験は、地上の暮らしと密接に関わっています。日本の企業が消臭、除菌機能のある繊維を開発し、洗濯がままならない宇宙用の下着として使用し好評だったことから、地上でも、ワイシャツやスポーツウェアなどの製品に応用されています。
ISSは2024年末で運用を終了し、25年以降、国際協力による新たな宇宙探査ミッションを立ち上げることを検討しています。アメリカは火星をめざし、日本は月に行くことを提案しています。
宇宙飛行士になるには様々な条件がありますが、最も重要なのは「心技体」――強い心を持ち、勉強し、健康であることです。極限状態で、仲間と力を合わせるチームワークは欠かせません。皆さんもぜひ宇宙に行って、人の暮らしに恩恵をもたらしてほしいですね。
天文台では星を調べる装置を開発したり、日本の企業と共同で、宇宙に打ち上げる望遠鏡に搭載する機器の小型・軽量化に取り組んだりしています。天文学は普段の暮らしと無縁に思われますが、天文学で開発された技術が、身近で役立つ例は多いです。ビデオカメラなどに使われるCCDは、天体観測における感度向上のために技術開発が進みました。星の光を調べる近赤外分光法は、果物の糖度、酸度を調べるのに役立っています。
実際に星に行くことができれば、より多くの情報が得られます。今年、NASAの探査機が10年かかって冥王星にたどり着き、様々な情報を送ってきました。その内容は、我々天文学者にとっても驚きの連続で、長年の研究の答え合わせをする高揚感を味わいました。天文学は、神様のパズルを解くような面白さがありますね。宇宙飛行士になりたい子どもたちは、夢を持ってこの分野をめざしてください。
岩谷産業グループでは、ロケット用燃料の液化水素を国内で唯一作っています。水素は酸素と反応してエネルギーに変換され、ロケットの動力に使われます。いわば、水素を通して、宇宙とつながっている会社です。
ロケット用に開発された液化水素は今、排気ガスが一切出ないクリーンなエネルギーとして注目されています。すでに水素で動く燃料電池自動車が国内で400台ほど走り始め、水素を充てんするための水素ステーションの建設が全国で始まっています。当社も東京や兵庫県尼崎市を始め、各地に水素ステーションを作っています。皆さんが大人になるころは、燃料電池自動車が普通に走る世の中になっているはずです。
水素を取り出す電源にも、太陽光や風力などクリーンなエネルギーを使えば、水から生まれて水に戻る理想のエネルギー循環が実現します。青い地球ときれいな宇宙を守るため、ぜひ、エネルギー問題に関心を持ってほしいと思います。
ISSは、地球を約90分というスピードで一周し、一日に地球を約16周しています。その間、宇宙飛行士は特殊な環境下で様々な課題や実験を行っています。宇宙飛行士になるためにはいろいろな条件があります。目標に向かってあきらめないことや何でも自分でできること。他国の宇宙飛行士と一緒に生活するのでコミュニケーション能力は大切です。きちんと正確に伝えることや誰とでも仲良くでき、友だちが困っていたら自分から声をかけて助けてあげることは非常に大事です。宇宙飛行士に限らず、いろんなことに通じるので、ぜひ心がけてください。
神戸会場のバンドー神戸青少年科学館では、交信前に館内の宇宙関連展示を見学。ロケットの開発製造に携わる川崎重工業の話や月の重力が疑似体験できる装置を体験。「宇宙と地球」をテーマにした展示室ではフーコーの振り子を利用した地球の自転について学びました。また、天体観測室では25cm屈折望遠鏡で星の観測をし、宇宙への理解を深めました。
フォーラムでは、児童10人が、岩手での経験を力強く語った。
宮古市の田老地区を訪れた西宮市立苦楽園小6年川口綾斗君(12)は「(建物の)下半分を流されたホテルを見ただけで津波の恐怖を理解出来てすごい」と、保存の価値を指摘した。
三陸鉄道の震災学習列車に乗車した神戸市立長田小6年村上敬規君(12)は「命や生活を一瞬で奪った津波が、きれいな海から起こったと思うと悲しくなった」と自然の脅威を実感していた。
宮古市立第二中で生徒と交流した芦屋市立朝日ヶ丘小5年花山桜子さん(10)は「お姉さんの一日一日を大切に生きるという言葉が印象に残った」と感動を語った。
プロジェクトに参加した感想として神戸市立井吹の丘小6年青山咲穂さん(12)は「学校での震災学習にはあまり興味がなかったが、東日本大震災と関連して考えるようになった」と、意識の変化を自覚していた。
三陸鉄道は、東日本大震災で317か所の駅舎、線路、築堤、信号に被害を受けた。北リアス線で最も大きな被害を受けたのは、島越駅だった。津波にも耐えることができる設計だったが、無残にもすべて流されてしまった。社員は、三陸鉄道の再開は、不可能だと思った。
被災直後、線路を歩く人々の姿が多く見られた。道路は海水やがれきに覆われていたため、車はもちろんのこと人が通行することも難しい状況だったからだ。三陸鉄道は、唯一の生活道路になっていた。この光景を見た社長が、5日後の再開を決断し実行した。
一方、家を失った沿線の住民が、仮設住宅などへ避難したことで、三陸鉄道は、多くの利用者を失った。今後は、観光客を誘致するための企画を打ち出し、楽しい話題を全国に発信したい。それが、地域の情報発信にもなるはずだ。
震災遺構を残すことに反対する人がいる。しかし、人はいつか忘却してしまう。震災を忘れないために、遺構を残したいと思う。
被災地を観光資源にすることにも批判はある。しかし、「来て、見て、宿泊、食事、買い物」という、観光客による五つの支援が地域を支えている。津波によって、一時は海が大嫌いになったが、三陸の海と共存しながら、地域を元気にしなければならない。
「津波てんでんこ」という防災教育を受けてきた。子どもも親もそれぞれ逃げているはずだという信頼関係がなければできないことだ。漁師だった父親から「帰ってきたら靴をそろえろ。出船(出港可能)にしておけ」と、しつけられた。いつでも逃げることができるように、普段から準備をしておくという防災教育でもあった。地震が起きたら津波に用心し、高い場所に逃げることが大切だ。
大正筋商店街では、9割の店舗と住居が、阪神大震災の火災で失われた。しかし、倒壊によって圧死したのは3人だけ。地域が協力し合って助け出した成果だ。
現在、再開発ビルなど街の外観は整ったが、固定資産税は倍になり共益費や管理費もかかり、全てを失った被災者にとって重い負担になっている。長田を「ここに住んでいて良かった」と思える街にしたい。
東北も観光だけではなく、災害の学びの場にすることが重要だ。訪れた人が10年後、20年後にも来てくれるような策を考えなければ、復興にはならない。人と人がつながらなければならない。
子どもたちに語り継いでいることは、良いことも悪いことも過去は絶対に戻って来ないのだから、毎日、新しい夢を持とうということだ。防災面では、電気を使わない24時間を経験して備えてほしい。
阪神大震災当時、小学1年だった。父は消防士だったので、被災地に行ったまま帰宅しなかった。報道で惨状を見ながら、父がこのまま帰って来ないかもしれないという不安を抱いたが、母に伝えるのをためらったことを覚えている。
兵庫県立舞子高の環境防災科で、震災を語り継ぐことの大切さを学ぶとともに、父と同じ職業に就いた。
高校時代の一時期、「被災者でなければ語り部をしてはいけないのではないか」という疑問を持った。しかし、中年の男性は「子ども目線の震災の話を初めて聞いた」と喜んでくれた。そして男性の「震災当時、家族を残して仕事に出たが、残された子どもの気持ちを初めて考えた」との言葉によって、若者が語り継ぐことの意義がわかった。語り部が高齢化していく中、30、40歳代の働き盛りの人々が、語り部活動や防災活動に参加できる環境を整える必要がある。
人と防災未来センターで震災の語り部を続けている荒井勣さん(69)は、自らの技術と道具を駆使して給水や移動浴場などのボランティア経験を話してくれた。荒井さんは「相手に喜んでもらえたらボランティアになり、歓迎されなければおせっかいです」と心構えを生徒に伝えた。
「1・17 希望の灯り」の理事・上西勇さん(87)ら3人は、「神戸港震災メモリアルパーク」と「希望の灯り」を紹介しながら、「まず自分の命を守ることが大切」と述べた後、「神戸を訪れた人との出会いを大切にしながら、震災を語り継いでいきたい」と意欲を語った。
希望の灯りは、東北にもある。行方不明者が帰って来られるように、炎は消えることがない。
「神戸ルミナリエ」は、阪神大震災の犠牲者を悼むために続けられている。美しい光のモニュメントは、温かな市民らの思いとともに夜の街に浮かび上がる。生徒は「きれい」と一言口にしただけで言葉を失った。美しさと同時に生徒を驚かせたことは、集客力だった。「こんなに多くの人を見たのは初めて」と、観光都市・神戸の強みを実感した。
ポートアイランドのスケールの大きさも、生徒を驚嘆させた。大学や高層マンション、巨大な物流倉庫群。神戸ポートピアホテルに宿泊し、震災当日の話も聞いた。人工島であるがゆえに、震災では、液状化現象による被害が深刻だったことも知った。大都市であるがゆえに、災害対策が複雑になることを、生徒は学んだ。
神戸学院大生らとの意見交換会で、生徒たちは自らの夢を語るなど積極的に発言した。学生が行っている防災出前授業、大学で学んでいる災害・事故対策など興味がわく話題ばかりだった。「防災意識を高めるにはどうしたら良いのですか」と質問すると、学生は「常に危機意識を持つこと」と即答。ボランティア活動の感想を尋ねると、「ボランティアに行くこと自体が学び」と、実践者ならではの回答をしていた。遊びながら防災教育を行う「防災キャンプ」など、若者にもできることが多くあることも分かった。
大和リース民間活力研究所の角一吉昭部長(43)と安全管理部 筑紫学担当次長(47)による仮設住宅に関する説明からは、阪神大震災と東日本大震災の違いが浮かび上がった。神戸には、仮設住宅を建設するための土地が多くあったのに対し、東北は津波の危険性が高く、建設場所が限られたという。
神戸市消防局の山本奈緒消防士長(27)は、震災当日、家族を残して現場に向かった消防士の父に疑問を覚えたが、やがて「任務と責任を理解できた」と同じ道を選んだ。「家庭ができ、幼い命を守りたい気持ちが強くなった」との言葉に、生徒たちは自分の将来像を重ね合わせていた。
長田区の名物「そばめし」は、商店街や街の復興のシンボルだ。火災や倒壊に見舞われた商店街を盛り上げようと、店主らが団結し、それまで「裏メニュー」だったものを名物に仕立て上げた。生徒たちは、発祥の地であるお好み焼き店「青森」で「復興の味」に舌鼓を打った。
復興に尽力した大正筋商店街振興組合の伊東正和理事長(66)は、「地域文化や人情も残さなければ、復興とは言えない」と断言した。さらに、「火災ですべてを失ってから見えたのは友情でした」と生徒を勇気づけた。巨大な鉄人28号は、復興の延長線上に立つ。
「震災に対しては、被害の要因が複雑に絡み合う複合災害を予測することで想定外をなくす」と、理化学研究所計算科学研究機構(中央区)広報国際室の干場真弓さん(38)は、スーパーコンピューター「京」の性能について説明した。高度な想定実験能力によって、巨大地震の研究が進んでいることも知り、生徒は、減災への期待を強く抱いた。
神戸ルミナリエの電飾が点灯した瞬間、10人とも中学生らしい笑顔になった。六甲おろしが吹く寒い日に生徒たちは、「何かを学び取らねば」と緊張の連続だった。大都市で起きた大地震と津波に襲われた地方都市では、復興のあり方が大きく異なる。生徒は、どこから理解を深めたら良いのか迷ったことだろう。
生徒に助け舟を出したのは、神戸学院大生だ。ボランティア経験などによって人と接することに巧みな学生は、生徒の本音を引き出した。「将来、人の役に立つ仕事をしたい」「宮古の復興を手伝いたい」と、生徒は、意見交換会で堂々と夢を語ることができた。
震災の証言者たちは、震災の傷痕を見せたり、話したりしながらも、命の尊さと絆の大切さを繰り返し教えていた。「まず自分を守る。そうしなければ他人を助けることは出来ない」との言葉を、生徒は、心に深く刻みつけたはずだ。
被災経験によって普通の中学生以上に心の成長を遂げた生徒たちは、古里・宮古の復興にとって大きな力になると信じている。
(近藤真史)
空港からバスに乗り込み、津波の被害を受けた宮古市田老地区に向かった。田園風景を抜け、緑に包まれたつづら折りの坂道を下っていくと、傷んだ地盤を整地して出来た盛り土が、道路の両脇に目立つようになった。周囲には荒れ放題の野原が広がる。人の背丈ほどに伸びた雑草の合間からはコンクリートの基礎部分が見えた。人々の暮らしがあった証しだ。
バスを降りると、潮の香りが漂うが、海は見えない。宮古観光協会「学ぶ防災ガイド」の佐々木純子さんの案内で、防潮堤に上がった。震災以前は高さ10m、全長は2.4kmに及んだ。海側と陸側の2列の構造で、その威容は「万里の長城」と形容されたほどだった。しかし、津波はこれをものともしなかった。コンクリート製の堤は途中で壊れ、先がない。「津波到達まで40分もあった。防潮堤は時間をかせぐためのものだったはずなのに、逃げない人も多かった」。佐々木さんの言葉を、子ども記者がノートに書き留める。堤の外、海が見える側にいた人の多くは逃げて助かったという。
防潮堤の上からは、震災遺構として保存が決まっている「たろう観光ホテル」が見えた。6階建ての建物の下半分は鉄骨がむき出しの状態だ。復興作業を進める工事車両の騒音の中、子ども記者たちはシャッターを切り続けた。
被災者が逃げた高台への避難道を歩き、宮古市田老庁舎で、子ども記者たちは、現地を襲った津波の生々しい映像を目にした。佐々木さんが涙まじりに訴えかけた。「命を大事にして、いつかまた訪ねてきてほしい」
久慈駅から三陸鉄道の震災学習列車に乗った。海が見える場所で犠牲者に黙とうをささげた後、沿岸部を車窓から眺め、同鉄道社員、二橋守さんの説明に耳を傾けた。社員が徹夜で作業を続け、震災5日後に一部区間で運行を始めたことや運賃を無料にしたことなどを聞いた。「ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに津波が来たら?」の問いには「ホテルに逃げる」と小学生。「いいぞ、ちびっこ記者」。二橋さんは、最後に「自分の命は自分で守る強い人になって」と呼びかけた。
宮古市立第二中(佐藤亥壱校長)では、全校生徒の出迎えを受けた後、生徒代表の12人と意見を交換した。
「どんな街に復興させたいですか?」「今の思いは?」。子ども記者の問いに中学生が丁寧に答える。「奪われたものもある。それでも海を恐れず、活気ある街にしたい」「大震災があったことを忘れてほしくない」
中学生から“阪神大震災”を経験した保護者への質問も相次いだ。「20年近くたって、思うことは?」「街に活気を取り戻すには?」。言葉の端々に復興への思いがにじむ。「幼い子が見よう見まねで火を消すポーズやバケツリレーごっこをして遊ぶ姿を見て、生きる力を感じた」「復興に時間がかかると、建物はきれいになっても人が戻ってこない。スピード感が必要」。中学生らが真剣なまなざしで聞き入っていた。
最後に、小学生から「ケーキハウス ツマガリ」(西宮市甲陽園)より提供された洋菓子を手渡した。ツマガリのケーキは、宮古市にある「しあわせ乳業」のミルクを使用している。
最終日は、大槌町役場旧庁舎や同町内の小中学生が学ぶ仮設校舎を見ながら、バスで釜石市に移動した。ボランティアの活動拠点、NPO法人「カリタス釜石」に立ち寄り、スタッフの千田栄さんやこの施設を建てた大和リースの須江龍二さんから被災時の話を聞いた。
津波に流されたJR鵜住居駅では、ホームの上に立った。釜石観光ボランティアガイド会の川崎孝生さんが、海寄りの市立釜石東中校舎跡地から高台へ続く約2kmの道を指で示す。「釜石の奇跡」の舞台となったルートだ。
大きな揺れを感じた中学生が、隣接する小学校の児童にも呼びかけて高台へ、さらに安全な場所へと年少の子らの手を引いて逃げて命を守った。「津波てんでんこ」※の教えが実を結び、市内では小中学生約3000人のほぼ全員が助かった。
「津波てんでんこ」という言い伝えが、教えとともに私たちにのこすものは古くて新しい。語り継いでいくことの大切さと、その難しさだ。
多くの小中学生が自らの命を守って「釜石の奇跡」として広く知られることになったが、大部分の被災地では、その言い伝えを生かし切れなかった悔恨の念がにじむ言葉を何度も耳にした。「もっと救えた命があったはず」「悔しい」——。
「常に備へよ」。これは、甲南小学校(神戸市)の創立者・平生釟三郎の言葉で、多くの犠牲者がでた1938年の阪神大水害の教訓として、校内に石碑が残る。
首都直下型地震、南海トラフ巨大地震。大きな災害が予測されるが、いつ起こるかはわからない。備えを怠らないことが肝心だ。
旅の後、3日間で画用紙大の紙8枚分、3000字の壁新聞をつくった女子児童がいる。「防潮堤は本当に必要か」「(中学生から)震災を風化させたくない気持ちが伝わってきた」。写真や地図を交え、胸に刻んだ言葉がちりばめられた。
10組20人の親子が被災地を巡った2泊3日の旅。小さな一歩かもしれないが、意味のある歩みだったと信じたい。子どもたちの心にともった灯が消えることなく、次代に継がれることを願う。
(住田勝宏)