2024.10.29
デジタル技術の進歩などにより、利便性が著しく向上し、私たちの生活は大きく変わってきました。その一方で、生活を豊かにするはずの技術の進歩が、時として行き過ぎた効率化につながり、常に追い立てられせわしない状態に陥ることも危惧されています。人生にとっての豊かさとは何か。ウェルビーイングにつながる適切なパフォーマンス(適パ)とはどういうものなのか。深い洞察力から「走る哲学者」の異名も持つ、男子400mハードル種目日本記録保持者で3度のオリンピック出場を果たした為末大さんに、現役時代の経験も踏まえつつ日々の生活との向き合い方などについて聞きました。
適パと聞くと、私はコンディショニングをイメージします。トレーニングは能力を向上させるもの、コンディショニングは体調を保ち、良い状態を作るためのものです。 人間の身体は、運動し刺激を入れて疲労させるとより強くなるという性質があります。これを繰り返していくのがトレーニングです。筋肉が太くなるメカニズムです。一方で、コンディショニングというのは、自分自身の状態を指します。
より良いトレーニングは、良い状態でなければできません。トレーニングの刺激の強さ分、体は強くなるのですが、疲れていると十分な刺激を入れることができず、結果としてトレーニング効果も十分得られなくなります。
私たちの時代より前の1980年代はトレーニングをとにかくやっていたのですが、それではあまり強くならないことがわかって、2000年代あたりから選手もコンディショニングを意識するようになりました。最近のアスリートは世界レベルで戦っていますが、これはコンディショニングを意識するようになったことが大きいと思います。
コンディショニングは幸福感とは少し違う概念です。確かに体調が良ければ人は幸せを感じやすいとは思いますが、それよりは力を出すための準備ができている状態に近いと思います。
私にとって一番大事な二つの要素は、睡眠と食事です。これは大体アスリートの世界では共通ですね。選手時代は8時間睡眠で23時前に寝るようにしていました。食事は基本的なバランスを重視していました。 今は昔と比べて運動量が圧倒的に減ったので、昼ごはんは食べないようにしています。年齢を重ねると自分の状態も変わっていきますから、それに合わせて食事と睡眠は変えるようにしています。
私の今の1日のルーティーンは、朝5-6時ぐらいに起きて30分ぐらい散歩をします。頭が整理されてアイデアが浮かんで来るので好きな時間です。朝ごはんは前日の夜遅かったり食べ過ぎたりすると食べないようにしています。大事な仕事は基本的に午前中に入れるようにしています。午前中のパフォーマンスが良いように設計しています。
夜ご飯は基本的に食べています。お酒も適度にですが飲みます。意外に思われるかもしれませんが、運動は散歩以外はほとんどしていません。もともと、自分で身体を鍛えるために重たいものを持ち上げるような運動が好きではありませんでした。 野山を走ったり、自然の中で動いたりするのが好きですが、機会を持つのがなかなか難しいですね。
コンディションは客観的なデータだけでは示しにくいので、自分の主観的評価が大切になります。私にとっての指標は「朝の目覚めの良さ」ですね。もし判断基準がわからないのであれば、毎日同じ時間に今の自分がどんな状態か10段階評価で記録してみてっていうと思います。その記録がたまっていくと、パターンが見えてきます。たとえば、「なんで今日は3なんだろう」って考えると、いつも「3の日」の前の晩にはこんなことしているなっていうパターンが見えてくる。そして3から早く8や9になった時は、こんなことをしていたな、と調整をするやり方を見つけていく。一番難しいことは先ほど申し上げましたが、自分で自分の状態に気づくことです。それがないとコンディショニングが成り立たない。だから自分の観察ポイントを見つけていくのが大事なんです。
自分のコンディションがよくわかっていないと、自分の疲労がうまく掴めません。特に慢性的に溜まっていく心理的な疲労ですね。そのまま自分を追い込んでいくと、ぷつっとある日モチベーションが切れてしまうこともよくあります。心が疲れてきてるかどうかを自分で実感できないと、自分でストップをかけられない。なので、コンディションの指標、ものさしを持つことはすごく重要です。
一般の生活でも同じだと思います。コンディションがなぜ数値化しにくいかというと、人間全体のことだからです。例えば、血液検査などで数値が良いと医学的には問題なしと言えるかもしれませんが、人間関係が悪くて心理的に落ち込んでいることもありますよね。そういった心の話や、人間関係のことは数字には表れません。でも、幸福度にも、コンディションにもとても大きく影響しますよね。
これ、多分言葉を変えると自分を大事にしませんかっていう話だと思うんです。外に向けているベクトルをちょっと自分にも向けてみる瞬間を作る。「昨日に比べて今日は調子が良いですか?」って問いかける。そういう定点観測を大体一年ぐらい続ければ、自分のコンディションに気づきやすくなります。
これをやれば健康になるという本はありますが、これも自分の基準がないとダメだろうなと思います。それがなければ、やり続けて、やり過ぎて、もっと悪い状態を招くかもしれませんから。室温がわからないエアコンのように、温め過ぎたり、冷やし過ぎたりしてしまう。
主観的評価は、データとして信頼性が低いと以前は言われていましたが、スポーツの現場で身体のバイタルデータと比較した時、大体あっていることがわかりました。主観的評価も鍛えれば頼りになります。
「馴化(じゅんか)」という言葉があります。同じことばかりを続けていると、馴れて効果が薄まるという考え方です。だから、新しいことを一定程度始めながら、既存のルーティンが守られてるという状態がいいのだろうと思います。私の考える「適切な状態」というのは、そのなかに一定の好奇心や成長意欲が含まれていて、新しいものを取り入れたいという気持ちもある状態なのかなって思っています。もし体のことだけ考えるなら良い生活習慣をひたすらに繰り返せばいいと思いますが、心のことを考えるとそれだけだと飽きますよね。そういう意味では、新しいものを少しずつ取り入れ続けるというのは、心のコンディションにとって大事だろうと。本を読むとか、新しいことを始めるとか、新しいコミュニティに属して知らない人たちと出会うとか。
私の基本的な人間のイメージは、身体の土台の上に心があるというものです。だから、何かを変えたい時には、考えを変えようとするのではなく、まず行動を変えてしまう方がいいと思っています。乗る駅を変えるとか、食べる場所を変えるとか、会う人を変えるとか。週に一回か二回は絶対いつもと違うことをするんだって決めて実行してみる。そうすると違う考え方が出てくると思っています。
何から始めていくかよくわからない場合は、やってみようと思ったけど、いろんな理由でやらなかったことから始めてみるのがいいかもしれません。たとえば、旅行に行ってみたいと思ったけど面倒くさくて実行しなかったのを、本当に行ってみるとか。大人になるといろんな経験や計算が働くので、パッと思いついたアイデアをすぐに自分で潰すことがありますよね。そういうのを何か1個でいいんで、そのまま実行してみる。で、だんだん慣れてきたら、何も理由はないけれど、乗る駅を変えてみようとか、いつもと違う人とランチ食べてみようとか、ちょっとパターンを崩してみる。
今の状態を変えたいと思っている人はもちろん、そうでない人も普段から新しいことを常に取り入れ続けてみてはどうかを思います。変わることも慣れですから、あまりに変化が少ないまま生きているといざ変わらなければならない時に億劫になってしまいます。ですから、普段からちょっとだけ行動を変えるルールにしておくのが一番手っ取り早いように思います。私はどちらかというと、新しいことをやりすぎてしまう方なので、むしろ何かのパターンを作ろうとしてますけど、「変えたい」という人は、パターンにはまってる方が多いように感じます。
でもこれも、変え続けて何も構築されていかないというのは、それはそれで問題なので、適度な範囲があるかとは思います。
Deportare Partners代表
為末 大
1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2024年10月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作は『Winning Alone』『諦める力』など。
Other JOURNALS