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企画・制作:読売新聞社ビジネス局
2024年8月8日 Sponsored
by西南学院大学
ノンフィクション作家堀川惠子さんを講師に迎えた「読書教養講座」(西南学院大、活字文化推進会議主催、読売新聞社主管)が6月6日、福岡市の西南学院大で開かれた。読売新聞社が進める21世紀活字文化プロジェクトの一環。テレビ局記者から作家に転身した堀川さんは戦争や原爆、死刑制度などをテーマに、膨大な資料収集と丹念な取材で現代社会への問題提起を続けている。「悠遠(ゆうえん)の事実に迫る」をテーマに、第1部ではコーディネーターの柿木(かきぎ)伸之・国際文化学部教授と対談を繰り広げた。第2部では学生からの質問に答えながらノンフィクションを書き続ける思いを語った。
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はじめから視聴
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第二部から視聴
堀川 惠子
(ほりかわ・けいこ)
1969年広島県生まれ。広島大学総合科学部卒後、広島テレビ放送の報道記者、ディレクターを経て、「死刑の基準 『永山裁判』が遺したもの」で講談社ノンフィクション賞を受賞したのをはじめ、「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」で新潮ドキュメント賞、「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」で大宅壮一ノンフィクション賞、夫の故林新氏との共著「狼の義 新犬養木堂伝」で司馬遼太郎賞。近著「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」は大佛次郎賞を受賞した。
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柿木
私は広島市立大学で教員をしていた2015年に「原爆供養塔」を読んで深い感銘を受けました。テレビ局の記者ではなく作家として生きていこうと決心されたきっかけをお聞かせください。
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堀川
テレビは一点に集約していく仕事。焦点になっているテーマからすれば余計な要素は削除していかないと最後まで視聴してもらえないのです。
そういう要素をただ捨ててしまうのはもったいないと常に思っていました。並行して本を書くようになって、自分の足で歩いて、お話を聞いて感じたことを、要約ではなく正確な形で残すことが自分にとても合っていると思い、軸足が移っていきました。
取材し、様々な情報を仕入れ、自分もその中にどっぷりと浸る。でも最後はテレビも本も対象に浸っていては駄目。今まで向き合ってきた取材対象者と思い切り距離を取り、違う場所から俯瞰して編集する、あるいは書くという作業に入ることが大切です。 -
柿木
書くことは、かつて身に起きたことを証言する人の息づかいまで克明に伝えられると思われたのですね。
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堀川
書くという作業は様々な人に向き合い、最後は自分自身に向き合う。本当にこれで良いのか?だれも答えてくれない。自分をギリギリまで追い詰めていくと、書くと言うより途中から書かされている不思議な感じになります。
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柿木
そのように書かされるというところまで自分を追い詰めないと良い文学作品は生まれない気がします。
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堀川
広島の平和記念公園にある原爆供養塔に眠るのは引き取り手のいない7万の遺骨。それを頭で理解しているのではないか。心でどう感じて言葉にするか。難しさはあります。事実を並べるだけでは作品は書けません。
広島テレビに就職して最初は原爆から逃げ回っていました。広島県三原市で生まれ育ち、小中学校からずっと原爆、原爆。つらい話を聞いてきて、就職して何でまた原爆?と思っていました。しかし、記念公園が今ある場所に自分の家があったことを突き止められた被爆者の方を取材し、ご本人以外の家族はみな原爆の犠牲になったというお話を、その場所でうかがって、原爆に遭うということが初めて胸にストンと落ちたのです。そこから私は記者として原爆に向き合い始めました。
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柿木
「原爆供養塔」で紹介されている佐伯敏子さんとの出会いをご紹介ください。
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堀川
おわんを伏せたような丸い形をした供養塔にいつも喪服を着たおばあちゃんがいるのです。その佐伯敏子さんは「マスコミの人は原爆慰霊碑に手を合わせたら、広島を知っているつもりになっているが、慰霊碑にあるのは過去帳、犠牲者の名簿。でも供養塔には骨が眠っている。骨があるほうが中心地」と話していました。見かけない時は川沿いでボタンを拾っていました。広島には多くの学生さんが動員されていたのですが、約7000人と言われる亡くなった学生さんのボタンが落ちているのです。ボタンは金具ではなく陶器。金属は供出されて陶器が代わりでした。
蒔いた種が芽を出すまで時間がかかります。佐伯さんのことを書こうと思ったのがその約10年後。その時初めて、供養塔に納骨されている一人一人と向き合いたいと思いました。 -
柿木
広島が重要な拠点の一つとして機能した戦争が続くなか、日本列島各地から、また朝鮮半島からも広島に来ていた多くの人も原爆で亡くなっています。「暁の宇品」などにつながっていると感じます。
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堀川
原爆で約15万人が亡くなっており、15万分の1と考えると小さい。しかし一人一人には自分の命しかありませんから、15万分の1ではなく1分の1。なぜその苦しみを広島があじわわなければならなかったのか?
米国国立公文書館に、原爆をどこに落とすか検討した委員会の議事録があります。広島が毎回筆頭の候補地として出てきて、「重要な軍隊の基地」と書いてあったのです。最初、(海軍があった)呉の間違いかと思いました。その時の衝撃から取材が始まりました。 -
柿木
宇品から船で兵隊や兵器が海外へ出て、戦禍がアジア各地に広がるわけですね。
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堀川
広島が他都市と決定的に違うのは、陸軍の最大輸送拠点・宇品があった。広島は原爆投下から語り始められることが多いのですが、歴史は点ではなく、積み重ねがあるのです。
なぜ広島だったのか?なぜ、なぜと歴史を辿ると明治初期まで遡るのです。広島の死者たちと向き合ってきた者の責任というか、佐伯さんの言葉を借りると、知った者の責任です。なぜ広島か?作家としてそれに向き合わなければいけない。決意と苦しみがありました。 -
柿木
「暁の宇品」では、軍人の歩みとともに戦争に巻き込まれた民間の方々も取り上げているのが印象的でした。
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堀川
軍人を主人公にしたことで「裏切り者」とも言われました。たしかに戦争になると、加害者と被害者の立場が分かれますが、取材して戦争の現場に分け入ると、被害と加害は紙一重で、いつ、どちらに転ぶか分からないのです。
原爆は米国が初めて投下したけれども、日本も一生懸命原爆を開発していましたし、日本が米国に原爆を落とした可能性だってあった訳です。
例えば戦争に行かれた皆さんのおじいちゃんは加害者と言い切れるか?という問題があります。確かに侵略を受けた側からすれば加害者に間違いない。では喜んで皆さん戦争に出て行きましたか?そうではありません。日本を守るためと出征した人もいれば、嫌だ、行きたくないと思いながら戦争に行った人もいるでしょう。だから、戦争の顔というのは、加害や被害など単純な言葉では割り切れません。
「暁の宇品」は2010年に取材を始めて書き上げるまで11年。一生懸命に自分の人生をかけて戦った人たちがいる。でも、それは大きな間違った流れの中での一生懸命でした。とはいえ、個々人としては、この日本を何とかしようと頑張ったわけです。ですから、被害とか加害とか簡単なくくり方をせず、大きな構造の中で人の生き方を見る。被害と加害の境界線をもっと自由に行ったり来たりして……。それこそが本の力ではないのか。そんな目線で広島、そして戦争というものを描きたいという気持ちで書きました。
第2部トークセッションでは、柿木ゼミの学生が読んだ堀川さんの著作を紹介しながら堀川さんに質問し、柿木教授がコーディネーターを務めた。
「原爆供養塔」について、学生の一人は、「調べた原動力は何ですか?」と質問。堀川さんは「行政はそっとしておいてという感じで放置してきた。自分を含めた社会に対する怒りが私を動かしました。遺族は『被爆したことを人に知られたくない』『家族が嫁に行けなくなる』など依然として苦しみ、悲しみが堆積しているのです」と説明した。
「暁の宇品」を紹介した学生は、「作品に出てくる『ナントカナル』という精神論は今の私たちにもあると思います。我々がなすべき事は?」と問いかけると、堀川さんは「現在、海外と往来する船の乗組員の90%以上は外国人なので、四方を海で囲まれた日本は戦争ができない国です。では戦争をどう防ぐかを考えてほしい」とした上で、「一番大事なのは、どう戦争をしないで済むかを考える。それは政治家や防衛省などだけにお願いすることではなく、現代に生きる私たちが考えなければいけません」と結んだ。
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内務省(当時)から派遣された移動劇団員の被爆を紹介した「戦禍に生きた演劇人たち」について、別の学生は、「資料や当時を知る人が少ない中で、取材や構成で意識されたことは?」と質問し、堀川さんは「資料は劇団員のご遺族から早稲田大学に寄贈され、大学に何度も調べてもらって見つけてもらいました。寄贈されながら整理されていない、ネットに載っていない資料は膨大にあるのです」。
さらに、「東京で芝居をしていた人たちがなぜ広島へ?なぜこんな事が?という疑問が取材の原動力になり、なぜ、なぜと突き詰め、怒りを持ち続ける。諦めない気持ちを持ち続けることと、その気持ちをキープするために心と身体を元気に保つ。当たり前の事が大事だと思います」と答えた。
柿木教授は「本日は『なぜ』と言う問いをやめないことの大切さを教えていただきました。本講座はこうした作品を読み継ぐということと同時に、そういうスピリットを持ち続けなければならないと感じました。また、戦争の記憶から今の私たちがどう生きるべきか考えることは私たちに課せられた重要な課題です」と結んだ。