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現実世界での“実践”に貪欲に手を伸ばし、
強い知性を獲得しよう!

フォト岡村 隆さん

不退転の覚悟で休学、海外遠征へ

田中 このたびは植村直己冒険賞受賞おめでとうございます。法政大学にとって大変な誇りです。

岡村 スリランカの遺跡調査は法政大学探検部在籍時に着手して、これまで50年かけて253カ所の遺跡を調査してきました。長く続けたということで仲間全員に頂けたものと思っています。地味な活動に選考委員の方々が目を向けて下さってありがたいです。

田中 私は開高健ノンフィクション賞の選考委員をしている関係で冒険について書かれた作品を読む機会も多いのですが、岡村さんは探検家ですよね。探検と冒険はどう違うのでしょうか。

岡村 未知の土地に乗り込んで、未知の事象を科学的に解明し、その結果を持って帰るのが探検で、道中の危険や困難そのものを経験することを目的にするのが冒険です。今回も探検家である私に、「冒険賞」を授与することへの議論はあったそうです。

田中 2018年は長年の調査が大きな成果として結実した年だったのですよね。

岡村 実は2016年にも目標とした遺跡の近くまで乗り込んだのですが、難所があって断念し、昨年やっと到達できたんです。

田中 大変な場所なのですね。道は通っているのですか。

岡村 獣道はあります。象が通った後を上手く見つけると何とか先へ進めます。

田中 当然地図もないわけですよね。

岡村 それが地図はあるんです。イギリスの植民地だったので、100年前にイギリスの測量技師兼探検家が残したほぼ完璧な地図が存在します。彼らは測量中に遺跡を見つけたら地図上に「遺跡あり」と印をつけていた。私たちはそこにも載ってない場所を探しに行きますが、まず頼りにしたのはこの地図でした。

田中 探検は歴史の積み重ねなんですね。今回発見されたのはどのような遺跡ですか。

岡村 タラグルヘラ山遺跡と呼ばれる大規模な仏教遺跡で、紀元前に建てられた仏塔や僧院、岩窟などを発見しました。

田中 なぜジャングルの中に仏教遺跡があったのでしょう。

岡村 紀元前3世紀頃に仏教が伝来して以来、仏教を精神的な基盤に、貯水灌漑農業を経済的な基盤にして栄えたのが古代シンハラ文明でした。しかし、13世紀を境にその文明が滅びた。その大きな理由は貯水池を作り過ぎて過剰に開発したからだと言われています。その後、イギリスの植民地になるまでの700年〜800年間は文明の痕跡はジャングルの中に埋もれたままだったのです。

田中 そういうことだったのですね。仏教遺跡とそれを守る町や村にも栄枯盛衰があるとは、とても興味深いです。ところで、最初の探検はモルディブだったとか。

岡村 法政大学3年生の時に、探検部の仲間3人と不退転の覚悟で1年間休学して、イギリスからの独立直後で鎖国政策を敷いていたモルディブへの民間人初入国を狙いました。以前からモルディブ政府と交渉していたのですが、らちが開かない。それなら玄関先交渉しかないとスリランカのコロンボまで行ったところ、日本大使館からの協力を得られて三カ月後に入国を果たせました。実は入国許可を待っている間ホテルで暇にしていたら、スリランカ政府の観光局の人に「スリランカにもジャングルの中に未知の遺跡がたくさんあるよ」と教えてもらったんです。そのとたん、「人知れず眠る遺跡」のイメージが頭に広がり、「それはやらんといかん!」となってしまった(笑)。モルディブ探検のために、もともとゴムボートなどの装備は持っていたので後先考えずに出発しましたが、きちんと現地の情報を取ってなかったため、川の激流でボートが転覆して装備が全部流されてしまった。一度は失敗したものの、絶対に再挑戦しようと、スリランカの遺跡の情報を集めて帰国。その4年後の1973年に最初の隊を作って再訪することができました。

探検家として生きるため、就職は考えなかった

田中 在学中からすごい探検家だったのですね!長い年月をかけておられますので、何かの形で成果を発表されているのですよね。

岡村 毎回報告書を作って、考古学や仏教学の関係者に伝えています。報告書の積み重ねが評価につながり、それが続ける力になる。そのなかで大きな発見もありました。スリランカはご存知のように小乗仏教の国ですが、12世紀までは大乗仏教も栄えていました。それを裏付ける磨崖仏の遺跡を発見して、学術的にも大きな発見だったものですからスリランカ政府の発表で知った人たちから法政の探検部にも問い合わせがきました。ヨーロッパや日本の有名な仏教学者も著書の中で「法政隊の画期的な発見」と紹介してくれました。

田中 法政大学がアジア文化にそのような貢献をしていたとは、誇らしいです。資金の調達はどうされているんですか。

岡村 私たちが海外遠征を始めた頃にはもう、企業から資金が集まる時代ではなくなっていたので、大きなスポンサーをつけたことは一度もありません。全部自腹です。ただ、ちょっとした装備、医薬品、食品を提供してもらうことはあります。

田中 自腹ということは、探検しながらずっとお仕事をしておられるのですよね。どんなことをされてきましたか。

岡村 卒業時から探検家としてやっていきたいとは思ったものの、探検家という職業があるわけではなく、当然何かで稼がなくてはなりません。先輩方を見ると、研究者になる、本多勝一さんみたいなジャーナリストになる、あるいは貿易商人だったランボーのようにビジネスをやるといった選択肢しかない。しかしいずれも自分には向いていない。せめて手に職をと思っていたところ、探検部の先輩がやっている編集プロダクションから声を掛けてもらい、雑誌や書籍のレイアウトの修行をさせてもらいました。

田中 フリーランスの編集者というわけですね。

岡村 そうです。民俗学者の宮本常一先生が主宰していた日本観光文化研究所というところに山岳部や探検部出身者のサロンのような場があり、在学時にアルバイトをさせてもらっていました。そこで立場や所属にこだわらずに自分の夢を模索していた人たちと交流するなか、私もフリーでやっていこうと自然に思ったので、就職は一切考えませんでした。その後、宮本先生には遠征時に助言をいただいたほか、スリランカ第一次隊の報告書を作る資金も提供いただきました。

田中 確かに就職してしまうと探検には出かけられませんよね。

岡村 そうなんです。その後、会社勤めをした時は探検に行けずにつらかったです(笑)。

田中 そうですか。つまりお勤めになったことがある。

岡村 はい。最後は東海教育研究所という出版社で『望星』という月刊誌の編集長や役員も務めて退職しましたが、その前は「トラベルジャーナル」という会社に7年勤めました。この時は海外取材には行けましたが探検はまったくできなかった。毎月給料は入るし居心地も悪くなく、結婚もしましたので思いのほか続きましたが、辞めなきゃいけない事態が起こったんです。1982年にある外国の探検家がモルディブで太陽神殿が発見したというニュースが流れて、各紙が大きく取り上げました。しかし、私は「絶対に仏教遺跡だ」と確信していたので、それをどうしても看過できず、とりあえず2週間の休みを取って現地に飛びました。

田中 2週間で帰ってこられました?

岡村 1か月以上かかることは最初からわかっていたので、「帰らなかったらクビにしてください」と言ってから出国しました(笑)。実はその時モルディブで、テレビの企画で同じ場所に行っていた植村直己さんとの出会いがあったんです。今までは、すれ違えばお互い会釈するくらいの間柄でしたが、偶然帰りの飛行機も一緒で成田までの9時間ずっと隣の席で話しこみました。一番印象に残っているのが資金に関する話です。植村さんは冒険を道楽だと考えており、社会的意義を前面に出す人ではない。とはいえ、活動には大変なお金がかかるため、多くの企業や人が関わってくる。その気苦労や苦しい心情を聞いたことは今でも忘れられません。その飛行機が、植村さんが最後に生きて帰国した便だったのです。

田中 そういう意味でも植村さんとは大変深い縁だったのですね。

法政で知の世界との向き合い方を学んだ

田中 子供の頃から探検に興味を持たれていたんですか。

岡村 小さい頃から『宝島』『十五少年漂流記』『ロビンソン・クルーソー』などを読んでいるうちに空想力、想像力が涵養されたことと、南九州の霧島山麓で育ったため自然が手近で本で仕入れた知恵を発揮できる環境があったことが大きかったと思います。「川があるからいかだを作ってみよう」「鳥を獲って食べよう」ということを実際にやっていました。アグレッシブに川に潜って魚を銛で突いていました。

田中 そういう風にのびのび育っていらしたのに、東京に出てきて法政大学に入学されたのはちょっと不思議ですね。

岡村 農家の子でしたから家の手伝いがあったのですが、ちょうど高度経済成長が始まり農機なども普及し、中学で手伝いからは解放されました。その分、図書室に通ったり野山を回ったりするうちに、将来は自然に関わって生きたいという思いが強くなりました。高校で様々な探検記や大学生の体験記等を読み、大学では探検部に入ると決めていたんです。ある受験雑誌で、法政の探検部がインド洋のモルディブ諸島の初入国をめざすと紹介されていたのを読み、すぐさまインド洋を地図で調べて「行きたい!」「法政に入りたい」と思ったのです。

田中 つまり探検部に入学した、というわけですね。面白い(笑)。でも学部学科は選ばねばなりませんでしたでしょ?

岡村 法政なら日本文学科じゃなきゃと思っていました。小田切秀雄先生の存在が大きかったと思います。でも、当時は大学紛争中で授業もゼミも開けない状況でした。探検には文化人類学や民俗学の知識が必要でしたので、民俗学と近い民話学のゼミに籍を置かせてもらいました。

田中 私も同じく小田切先生の教えを受けたくて日本文学科に入りました。当時の日本文学科には社会と接点を持っている先生が多く、テレビや著書で社会批評をしながら自分の生き方と学問をつなげていることがよくわかりました。

岡村 私もそう感じました。そういう雰囲気をシャワーのように浴びながら、知の世界との向き合い方を学ぶことができました。

田中 実際、勉強しないと探検できませんものね。相当勉強されたでしょう。

岡村 本当に勉強したのは大学を出てからですけどね(笑)。でも必要に迫られていましたし、「知りたい」という気持ちも人一倍強かったですから。

田中 よく分かります。知りたい、という情熱をもっていると、面白くて仕方ありません。

岡村 「探検とは知的情熱の肉体的表現である」というチェリー・ガラ—ドの言葉があります。やはり情熱は大事です。

田中 法政の大学憲章は「自由を生き抜く実践知」です。何かをめざして実践すると必ず知性になる。まさにそれをなさってきたのですね。

岡村 やはり、実践を通さない知性は弱いと思います。

田中 これからも探検という実践を続けられますか。

岡村 去年発見した遺跡も全体像を把握できたかを再訪して調べる必要があります。他にも遺跡は無数にありますし、スリランカ政府からも新しい発掘場所の提案もいただいています。探検には終わりがありません。学問と同じでひとつ解決しても、次に課題が必ず出てきます。

田中 NPO法人を設立されたのでね。どのような活動をされているのでしょうか。

岡村 活動の永続化と後継者育成を考え、2008年に「南アジア遺跡探検調査会」を設立し、一般の方にも参加いただいています。仲間たちに会費という形で支えていただき、毎年、探検部の学生とスリランカに行っています。

田中 そういう方法で学生を教育して下さっているんですね。

岡村 毎年複数の大学の学生たちと勉強会を開き、野外生活の基本を教えるのですが、今の若い人はかまども作れないのには驚きました。近代装備があるから仕方がないかもしれませんが。

田中 いろんなことを体験する機会が減っているのでしょうね。

岡村 体験から何かを身につけることへの思いはあるけれど、きっかけが見つからないのでしょう。現実の世界にはたくさんのことが用意されているのに、「これだ!」と捕まえる手の感触が鈍っている。貪欲に捕まえてほしいです。

田中 その通りですよね。学生時代には体験や実践を通じて本物の知性を身につけて欲しいですし、私たちもその支えになるような教育活動をしていきたいと思います。本日はありがとうございました。

※こちらの対談は、2019年4月20日に実施しました。翌21日にスリランカのコロンボにて連続爆破テロが起こり、250人以上が死亡し、500人以上が負傷しました。被害に遭った多くの方々に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。


探検家・編集者 岡村 隆(おかむら たかし)
1948年、宮崎県生まれ。1972年法政大学文学部日本文学科卒業。法政大学探検部OB。1969年、独立直後で鎖国状態のインド洋モルディブへ特例で入国、半年間の民俗調査ののちスリランカの密林遺跡探検に転じる。編集者の本業の傍ら、これまでの50年間に258カ所の遺跡を調査。2008年にNPO法人南アジア遺跡探検調査会を立ち上げ、スリランカ政府考古局と連携しながら活動を続けている。著書に『モルディブ漂流』(筑摩書房)、『泥河の果てまで』(講談社)、『狩人たちの海』(早川書房)など。2018年植村直己冒険賞を受賞。

法政大学総長 田中 優子(たなか ゆうこ)
1952年、神奈川県に生まれる。法政大学文学部卒。同大大学院人文科学研究科修士課程修了後、同大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。2014年4月より法政大学総長に就任。専攻は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。行政改革審議会委員、国土交通省審議会委員、文部科学省学術審議会委員を歴任。日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、サントリー芸術財団理事など、学外活動も多く、TV・ラジオなどの出演も多数。

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