認知症などで食べる機能を一時的に失っても、適切な指導と処置があれば噛む力と嚥下(えんげ)機能を取り戻すことができます。「ハート・リングフォーラム2022」では、オンラインフォーラムと摂食嚥下障害の専門医である戸原玄さんのドキュメンタリーを通して、超高齢社会の中での口の健康を維持することの重要性を伝えていきます。
高齢者の死因で多い誤嚥(ごえん)性肺炎は、加齢に伴って嚥下機能が弱まり、口内細菌が食べ物と共に気管から肺に入ることなどで起こります。それを防ぐためには口の中を清潔にしておく、そして嚥下機能を高めることが重要です。
口を開く筋肉は喉元の筋肉と連動しているので、まずは口を大きく開く練習をします。そしてやはり噛むことはとても大事で、噛む力である「咬筋(こうきん)」を鍛えるには柔らかいマウスピースを使い、噛み締めることで訓練効果があります。猫背だと誤嚥しやすくなるので、食事の際は姿勢正しく腰掛けます。日頃のストレッチはとても効果的で、太ももの裏が柔らかいと座った時にまっすぐな状態を保てますし、肋骨がしなやかであれば肺が広がって、誤嚥の際に吐き出しやすくなります。さらに最近の研究では、からだの中心にある筋肉(体幹)を鍛えると、嚥下機能が向上することがわかってきました。ただし体力が落ちてきた方は無理をせず、日常の生活では寝ないで座る、座るよりも立つ、立てるのなら動くというように心がけるとよいでしょう。
認知症になってうまく食べられない方については、急かさないようにすることが重要です。理解力が低下されているので、過度に助言をすると余計に混乱してうまく食べられなくなることがあります。
嚥下障害といっても必ずしも症状が長引くものばかりではなく、ケアや生活の見直しで改善することもできます。嚥下機能が下がって心配な方は検査もできますので、医療機関でご相談されることをおすすめします。
両親ともに認知症になり、足かけ25年その介護をしてきました。認知症が進行すると、脳から全身に送る指令も衰え、食べることが苦手になっていきます。父は一時は寝たきりで身動きできなかったものの、専門の方の指導のもとで1食2時間かけて食べるリハビリを行うことで、口から食事をとれるようになりました。次第に笑顔を見せるようになり、バスに乗ってお花見に行けるまでに回復しました。
その後、母も認知症を発症し、敗血症で入院する際に胃ろうをつけることになったのですが、その頃に「訪問歯科医」という人たちが活躍されていることを知って、退院後に自宅で口腔(こうくう)ケアをしていただくようになりました。すると、今まで頻繁に出ていた母の微熱が半減しました。さらに、摂食嚥下障害に詳しい専門医やかかりつけ医、看護スタッフと相談して、工夫して色々なものを食べさせる活動を何年間か続けると、うなぎの蒲焼きを食べることができるまでに噛む力が戻ってきたのです。
人はよく噛むことでぼーっとした状態から覚醒していきます。また、食事をするということは生活のリズム、ひいては生きる意欲にもつながっていきます。好物を食べて美味しかったなと思うのは十分に小さな幸せですよね。咀嚼(そしゃく)能力を維持することは、その人が生物として生きていく、という根幹にかかわる問題になります。認知症になっても、ご本人のことをよく知っているかかりつけ医、口の状態をよく知っているかかりつけ歯科医を持ち、チームを組んで進んでいただけたらと願っています。
口の中の汚れが肺の中に入ることで肺炎を招く誤嚥性肺炎(不顕性誤嚥)や、高齢者が要介護になっていく過程で影響をあたえているといわれているむし歯や歯周病など、超高齢社会の中で口の健康に気をつけることは重要だと考えられています。
東京医科歯科大学教授の戸原玄さんは、摂食嚥下障害の専門医。高齢患者の訪問診療を行いながら、学会や講演会などの多忙なスケジュールをこなします。戸原さんのモットーは年齢や疾患の有無にとらわれず、目の前の人に寄り添うこと。「若い時に、話すことができないと思い込んでいた患者さんからバレンタインデーにチョコレートをもらったんです」と戸原さん。患者というレッテル越しに見ていた自分を、その心遣いが悟してくれたといいます。
東京医科歯科大学とロッテが共同で開発した「咀嚼チェックガム」。1秒1回で60回噛んだ時に咀嚼能力が高い人ほど赤くなり、低い人だと色変わり度合いが弱くなるガムで、戸原さんも患者さんがどの程度咀嚼できるかを確かめるために使用しています。今回、誤嚥性肺炎の改善が見られた患者さんに使用した結果は5段階の真ん中。「可能性はあるので、患者さんにどの程度の咀嚼能力があるのかを見つつ、年内には口から普通の食事をとれるようにしたいですね」と語りました。
戸原さんが熱心に行っているもう一つの取り組みは、嚥下食を提供するレストランや医療機関の情報をマップにし、Webで公開すること。戸原さんが今回声をかけたのは、山形県でとれた旬の食材を使った嚥下食を提供している「うしお荘」。支配人の延味克士さんは「父親が嚥下機能を失ってから笑顔を見せなくなった」という経験から本格的に嚥下食の提供をスタートしました。「嚥下障害のある方もご家族と一緒のものを食べて元気になってほしい」という延味さんの言葉に、戸原さんも「家にずっとこもっているより、たまには外食に出かけようという気持ちになってもらえることがうれしいですよね」とうなずきます。「食べる喜びを支えたい」という医師と料理人、二人の思いは同じです。
「患者さんには、食べることだけでなく、とにかく楽しく、快適に生きてほしいですよね」と語る戸原さんは、訪問診療時には患者さんが楽しみにしてくれるような余興を毎回用意しています。食べるを支える戸原さんの挑戦はこれからも続きます。