中国古代史研究を通し、中国の今を知る:特集: 学習院TIMES 学習院大学:読売新聞オンライン

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※掲載の肩書は取材当時のものです。

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古代中国の秦・漢時代および始皇帝研究の第一人者、鶴間和幸教授。2021年3月末、定年退職を迎えます。25年にわたり学習院大学史学科で教鞭をとられました。この節目に鶴間教授は、今の中国をどのように見ておられるのでしょうか。若い世代が中国史を学ぶ意義とは何か? これまでの研究や中国との関わりを振り返りながら、お話しいただきました。

取材・文/上永哲矢

そこに至るまでは、いろいろな人々や史跡との偶然の出会いがありました

gakushuin_0331_tsuruma_1.jpg――鶴間先生が歴史学者になられたきっかけは、何だったのでしょうか?

鶴間 歴史は高校生のころから好きでしたが、本格的に学ぼうと思ったのは1970年、東京教育大学[※1]に入って東洋史学科を選択してからです。ちょうど、中国が文化大革命(19661977年)の真っただ中でした。

 当時は日本と中国とは国交が断絶していて、正しい情報が入ってきにくい状況でした。1972年に田中角栄首相が訪問して国交が回復しましたが、まだ私たちにとって「謎の国家」でしたね。当時は文化大革命のことも日本のマスコミは好意的に報じていました。大学入試を廃止したことも称賛していたほどです。ただ、私はそれを聞いて「科挙(かきょ)[※2]をやっていた国が試験廃止とは、どういうことなのかな」と思いました。もっと中国のことを知りたいと思ったのが、この道に進んだきっかけです。

70年代といえば、先生が東洋史学科に入学されてから4年後の1974年、中国陝西省にある始皇帝陵の周辺から兵馬俑(へいばよう)坑が発見されましたね。

鶴間 文化大革命とともに、その大発見も非常に興味深かったです。それまで『史記』でしか知ることができなかった秦や始皇帝が、グッと身近になった気がしました。その翌年に、湖北省で秦代の竹簡[※3]1155枚が発見されたのも大きかったですね。

 漢が400年も続いたのに対し、秦は15年しか存在しなかった国家です。そのため、史料が非常に乏しい状況で、研究はあまり進んでいませんでした。私も本格的に秦の研究を始めるのは中国を訪問してからで、それまでは主に漢代の研究をしていました。

――初めて中国へ行かれたのは、いつごろでしたか?

鶴間 1985年、茨城大学に助教授として勤めていたときです。1年間、中国社会科学院歴史研究所の研究員として訪問し、主に陝西省・西安の遺跡をたくさん調査しました。そのとき、ついでのような形で春秋時代の秦の墓の調査に立ち会いました。景公(けいこう)という、始皇帝より300年ほど前にいた権力者の地下墓地。これまで発掘されている古代の墓のなかで最大級の「秦公1号墓」(陝西省宝鶏市)です。

gakushuin_0331_book_mae.jpg その墓は現地で10年近くも発掘調査が続いていて、まず巨大さに圧倒されました。「始皇帝よりも300年も前の秦の人々がなぜ、こんなに巨大な墓を造ったのか」と、真剣に考えました。帰国後、駆り立てられるように「秦帝国の形成と地域」(『歴史と地理』372 山川出版社)を書いて発表しました。兵馬俑も現在8000体以上が見つかりましたが、あれだけのものを、なぜ一人の皇帝のために造ったのか。これを造らせた始皇帝とは、どんな人間だったのか。思えば、その問いが始皇帝研究の始まりでした。

――ほかには、どのような場所が印象に残っていますか?

鶴間 1991年に山東省を1ヶ月もかけて回ったことがあります。始皇帝は、ずっと咸陽(陝西省)に居たのではなく、中国統一を浸透させるために各地を巡幸していました。なかでも、一番よく行ったのが山東半島でした。そこは始皇帝が最後に滅ぼした斉(せい)の故地です。始皇帝は瑯琊台(ろうやだい/現在の山東省青島市)に離宮を造って、3ヵ月も滞在したと『史記』にはあります。初めて始皇帝の足跡を追って、そこへ行ったとき、私はその青い海の美しさに本当に感動しました。始皇帝もこの絶景に魅了されたに違いないと思いました。こういう感覚は文献では分かりませんし、現地へ行かなくては理解できないことです。


[※1] 東京教育大学は1978年に閉学し、筑波大学の母体となった
[※2] 科挙=官僚の登用試験
[※3] 紙が発明される前は竹などに文字が記されていた