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※掲載の肩書は取材当時のものです。

【日本の今】 明治天皇と今

林 幹人 (学習院大学 法科大学院 教授)

今の日本で最大のできごとといえば、天皇の退位と即位であろう。そのこととは、ほとんど無関係に、私はこのたびドナルド・キーン氏による「明治天皇」(2001年発行、新潮社)を読んだ。そこで、その読後感を書いてみたいと思う。

 伝記を書くとき大切なのは、その人物の心を描き出すことである。ところが、キーン氏が嘆いているのは、明治天皇の内心を推し量ることが、極めて難しいことである。15歳で即位した当時の天皇の内心で、知られている重要なものといえば、せいぜい、外国人嫌いであったということくらいである。即位してからは、神格化され、絶対的権力をもつこととなったが、それだけに、その内心は容易に示さなかったようである。肉親の死を報じられた時ですら、大きな感情表現を見せていない。常に側にいた皇后や女御の記録も少ない。周囲には多くの高官が常にいたはずであるが、彼らにも、天皇の内心はなかなかわからなかったようである。いわゆる御前会議などでも、ほとんど発言しない。多くの勅語が発せられたものの、どこまで天皇が書いたか、はっきりしない。せいぜい言えるのは、それらは天皇の意思に反するものではなかったということぐらいである。

 私は、第2次世界大戦の連合国勝利を導いたチャーチルの伝記を書いたことがある。内心の情報という点では、伝記を書く者は、むしろ情報の過多に苦しむ。まず、彼の頭は常に当時の世界の政治状況で占められていたから、そのことを知らなければならない。そして、大きな政治問題については、常に意見表明していたから、それを知らなければならない。彼は、第2次世界大戦についてはもちろん、第1次世界大戦についても、浩瀚な戦記を書いているが、そのどちらにおいても、自身が主要な登場人物であり、叙述全体が強烈な自己主張を含んでいる。プライベートなことでも、娘の母親についての伝記があり、相当公になっている。夫婦間の手紙も1700通ほど残されている。首相当時については、医師やボディガードの記した本もあり、その他にも、多くの伝記がある。そのような状況の中で、新しい意義ある伝記を書くときは、多くの情報からの選択を行わなければならない。いいかえると、多くのことを切り落とさなければならない。

 明治天皇の内心を示すものとして価値あるものは、数多く残された短歌である。天皇は多くの公務をこなす傍ら、短歌に気分転換を求めた。その短歌の中で、私にとって最も印象深いのは、次のものである。

よもの海みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ

 この短歌は、日露戦争当時に詠まれたもので、その意は、周囲の国は皆同胞と思っているのに、なぜ戦争がなければならないのか、というのである。日清・日露の戦争に勝利し、日本は世界の列強に肩を並べることとなり、国民は熱狂したが、天皇自身は、冷めた気持ちであったことがわかる。

 この歌は歴史的にも重要と思われる。というのも、後に日本人だけで300万人もの犠牲者を出した太平洋戦争の開戦を決める御前会議において、通常あまり発言しない昭和天皇が、この明治天皇の短歌を記した紙を懐中から取り出し、これを読み上げられ、自分はつねにこの御製を拝誦して、明治天皇の御精神を詔述しようと努めているといわれたという(岡義武「近衛文麿」(1972)177頁)。

 平成天皇も、このたび新たに即位される天皇も、お気持ちは同じと推察される。それは、「平」成、令「和」という年号にも示されている。

2020.3.23

プロフィール

林 幹人 (学習院大学 法科大学院 教授)

東京大学法学部卒業後、助手を経て、上智大学に赴任、2015年3月まで同大学法科大学院で教鞭をとる。2015年4月より学習院大学法科大学院教授。刑法学会会員、元司法試験考査委員。主な著書・論文:『判例刑法』(東京大学出版会、2011年9月)、『欺罔行為について』(西田典之先生献呈論文集、2017年)、『過失共同正犯の構造』(研修834号、2017)。