[取材協力]
慶應義塾大学名誉教授
オトクリニック東京院長
小川 郁
おがわ・かおる/1981年慶應義塾大学医学部卒、91年ミシガン大学クレスギ聴覚研究所研究員、2002~20年慶應義塾大学医学部耳鼻咽喉科教授、2017年慶應医師会会長、株式会社オトリンク代表取締役、日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会認定耳鼻咽喉科専門医。
耳の最も重要な役割は、言葉を聞き取り、周囲の人とコミュニケーションをとることだ。難聴や耳鳴りのために“聞こえ”が悪くなると、相手が何を言っているのか理解できなくなる。会話が成り立たず、人間関係がうまく築けなくなってしまうが、「悪影響は脳の機能にも及びます」と小川 郁医師は言う。
「会話は相手の言葉を聞き、頭で考えることが必要です。うれしい・悲しいといった感情が生まれるきっかけにもなります。このような“思考”や“情動”は脳の高次な機能ですが、会話が成り立たないと使う機会が減り、衰えることにつながります」
言葉を認識する力は認知機能の1つ。特に高齢者の場合、難聴を放置すると認知症のリスクが上がるとの研究報告が相次ぎ、認知症予防として難聴や耳鳴りの治療、補聴器の重要性に注目が集まっている。
誰とも話さなくなり、孤独になることも認知症のリスクとされ、耳鳴りがある場合は、物事に集中できない、睡眠の質が低下する、うつになりやすいといった問題もある。また、引きこもるようになると、筋肉が減り、フレイルから介護が必要な状態となるおそれも出てくる。
心身の健康を保つために大切な“聞こえ”。それを補ってくれるのが補聴器だが、日本では補聴器を使うべき高齢者の8割以上が補聴器を使っていない。その大きな理由が補聴器に対する信頼度、満足度の低さだ。
「補聴器は本来、日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会が認定する『補聴器相談医』を受診し、難聴の診断と補聴器適合検査を受けて選ぶことが大切です。その上で、認定補聴器技能者が在籍する認定補聴器専門店で購入します。しかし、実際には診断などを受けないまま、専門職のいない店舗や通販で購入する人が多く、補聴器に対する満足度や信頼度の低さを招いています」と、小川医師は指摘する。
自分に合う補聴器を選ぶためには、聴力の詳しい検査と補聴器適合検査が欠かせない。
「鼓膜の奥の内耳には音を感知する細胞(有毛細胞)が片耳につき約4000個×4列あります。それがピアノの鍵盤のように並び、それぞれ異なる高さの音を担当していますが、加齢によってその鍵盤が壊れてまばらになり“聞こえ”が悪くなる。それが加齢性難聴です。どの高さの音が聞こえにくいのかを詳しく調べた上で、補聴器適合検査で一人ひとりの状態に合うように補聴器を調整します。」と、小川医師は説明する。
補聴器は購入して終わりではない。リハビリが必須だ。
「音を感知する細胞は、一度壊れたら元に戻りません。減ってしまった細胞、すなわち欠けた鍵盤の働きを補うのは実は脳です。鍵盤が少なくなった部分に補聴器で大きな音を入れてやり、脳の働きで失われた鍵盤の働きを再現するのです。毎日補聴器を装用し、脳をトレーニングすると、3カ月から半年くらいで鍵盤の働きが再現されます」
このようなプロセスを経ることで補聴器は本来の力を発揮する。それを支えるのが、全国に約5000人いる補聴器相談医だ。日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会のホームページに都道府県別名簿が掲載されている。
3年ごとに行われる補聴器の世界的な満足度調査で、日本人の満足度は50%に満たない。欧米は70~80%と高く、その背景には国家資格の専門職が補聴器の調整・リハビリなどを行っていることがある。日本も、補聴器相談医の受診、専門店での購入、適切なリハビリが普及すれば満足度は上がるはずだ。年のせいと諦めたり、せっかく買った補聴器を「タンス補聴器」にしてしまうのは勿体無い。また、リハビリは耳の老化が進み過ぎる前に始めた方が、効果がある。
費用が心配かもしれないが、加齢性難聴の場合は、補聴器相談医の処方のもと認定補聴器専門店で購入すると、医療費控除が受けられる。また、自治体から助成が受けられこともある。
「加齢性難聴は本人よりも、家族などまわりの人が先に気づくことが多いものです。両親など の“聞こえ”がちょっとおかしいと思ったら、補聴器相談医に早めに相談しましょう」そう語る小川医師は大学発ベンチャーオトリンクで加齢性難聴の再生研究にも取り組む。